この記事の概要

呉市民でも、頭上の呉線鉄橋を『めがね橋』だと思っている人がいる」——『ブラタモリ』で全国放送された呉の「うっかり伝説」。白状すると、店主自身も学生時代はその一人でした。本記事は、店主が自転車で毎日通学した「めがね橋」と、放課後に通ったボーリング場・青山クラブ——その本物の正体を、呉市公式案内板・上田繁『眼鏡橋往来』(1974)・そして令和8年3月発表の『幸町地区総合整備基本計画(案)』を一次資料として辿った郷土史ルポルタージュです。

本物の眼鏡橋は明治21年(1888年)3月31日竣工、海軍第一門前に架けられた「境橋」(別名)。白色の雄姿が見られたのは僅か40年余り——昭和10年(1935年)の青山クラブ改築工事に伴う敷地拡張と河川の埋立工事で清水川とともに埋立てられ、存在すら忘れられて今日に至り、今も地中に当時の姿で眠っているのです。そしてその青山クラブ自身も、令和9年(2027年)に解体、令和13年(2031年)に新複合施設として供用開始することが、令和8年3月の呉市公式計画書で確定しました。本記事を書いている2026年6月——本物の青山クラブを見られる時間は、あと一年と少し。失われゆく呉と、R形状ファサードに継承される呉。その分水嶺の瞬間に、本記事は書かれています。

こんにちは、呉市のアッシュ書店です。前回(第1回・四ツ道路編)の戦前絵はがきから始めた「失われた呉を辿る」シリーズ、本日はその第2回・眼鏡橋編です。先日の本引取り完結編でも、お父様の蔵書を運び出した帰り道、「めがね橋」「青山クラブ」「海軍病院坂」と続く動線を歩きながら、「これらについては第2回・眼鏡橋編で改めて」と書き残しておりました。お約束、本日果たさせていただきます。

そして本記事には、店主自身の学生時代の記憶と、令和8年3月——つまり今年(2026年)3月に呉市が発表したばかりの公式計画書という、二つの大きな素材が加わりました。郷土史というのは、本やネットの中だけにあるのではなく、自分が自転車で通った道、放課後に立ち寄った建物、そして役所がこれから動かそうとしている計画書の中にも、確かに息づいている——今回はそんなことを実感しながら書かせていただいています。少し長い記事になりますが、お時間のあるときに、お茶でも飲みながらゆっくりお読みいただけますと幸いです。

この記事でわかること
・『ブラタモリ』でも紹介された「呉市民は呉線鉄橋をめがね橋だと勘違いしている」伝説の真相
・店主自身の当事者証言——学生時代に毎日自転車でめがね橋を渡っていた頃の記憶
・「あれはめがね橋じゃないんよ、本物は地中に埋まっとるんじゃ」——友人とビジネスホテル三島前の清水川を覗きに行った日のこと
・上田繁『眼鏡橋往来』(1974)が遺した「変わり果てた姿である」という決定的証言
・呉市公式案内板に基づく本物の「めがね橋」(別名・境橋/明治21年3月31日竣工)の正体
長崎の眼鏡橋(二連アーチ)と呉の眼鏡橋(単アーチ)——技術系譜と独自進化
青山クラブ全史(明治36年→昭和11年改築→英連邦占領軍「呉ハウス」→海上自衛隊厚生施設→令和の解体)
・店主が学生時代に通ったボーリング場——手書きスコア時代の青山クラブ
令和8年3月発表『幸町地区総合整備基本計画(案)』の核心——なぜ全部解体が選ばれたのか(3案比較・約64億円・約68億円・約87億円)
R形状ファサードの継承——失われる建物と受け継がれる景観イメージ
令和9年(2027)解体/令和13年(2031)供用開始——6年間の整備スケジュール
・本シリーズ「失われた呉を辿る」(全5回予定)の第2回としての位置づけ

第1章:店主自身も「あの鉄橋がめがね橋」だと信じていた

『ブラタモリ』をご覧になったことがある方なら、覚えていらっしゃるかもしれません。呉が特集された回で、こんな趣旨の話が出ていました——「呉市民の中にも、頭上を横切る呉線の鉄橋を『めがね橋』だと思っている人がいるんです」。全国放送で苦笑とともに紹介された、呉の「うっかり伝説」。

白状します。店主自身も、まさにその一人でした。

学生時代、店主は毎日自転車で「めがね橋」を渡って通学していました——と、自分では思っていました。実際に渡っていたのは、呉線の鉄道高架の下を抜けるあの場所。そしてそこに立つ時差式信号機の標識には、はっきりと「めがね橋」と書いてあったのです。頭上を横切る鉄道高架の形状がどうだったかは、正直言うとあまり記憶に残っていません。店主が「あれがめがね橋だ」と信じていた理由は、ただ一つ——信号の標識に「めがね橋」と書いてあったから。それだけでした。そしてそれは、店主だけではなく、同じ交差点を毎日通る多くの呉市民が同じように思っていた、長年のうっかり伝説の根底でもあると店主は思っています——交差点の正式名称として「めがね橋」と公的に掲げられた信号標識。それを毎日見上げて通っていれば、頭上の鉄橋を「めがね橋」だと思い込んでしまうのは、むしろ自然な心の動きです。

呉市『めがね橋』交差点の現在の風景。時差式信号機の上に「めがね橋」と書かれた標識、頭上を横切るグレーのJR呉線高架(昭和2年計画の別構造物)、右手に赤レンガ調の「KURE GATE」飲食店ビル、左手に水色のボンネットバス(大和ミュージアム周遊「れんがどおりコース」)。
現在の「めがね橋」交差点(呉市本通1丁目)。時差式信号機の上に「めがね橋」の標識、頭上にはグレーのJR呉線高架店主が学生時代に「これがめがね橋だ」と信じていた、まさにこの鉄橋です。後述しますが、これは昭和2年(1927年)に呉~三原鉄道敷設のために決定された別系統の構造物であり、本物の眼鏡橋(境橋)はこのすぐ真下——JR呉線高架の地下(青山クラブに隣接)に、清水川の暗渠とともに今も眠っています。右手は赤レンガ調のKURE GATE、左手は大和ミュージアム周遊のボンネットバス。先日の本引取り完結編では、お父様の本を運び出した帰り道、この交差点をボンネットバスがちょうど通り過ぎていきました。(店主撮影/2026年6月)

その思い込みをひっくり返したのは、ある日の学校の休憩時間の何気ない会話でした。めがね橋の話題になったとき、友人の誰かが、さらりと言ったのです。

「あれはめがね橋じゃないんよ」

「本物は地中に埋まっとるんじゃ」

その一言が、店主の世界をひっくり返しました。「えっ、地中?」「うん、清水川が暗渠になっとるけえ、その下に本物のめがね橋があるんよ」。「じゃあ、帰りに行こうや」——そうして話はまとまりました。放課後、学生鞄で自転車を走らせて向かった先は——今もある「ビジネスホテル三島」の南側をかすめるように流れる清水川でした。

清水川は、休山を源流として、清水ヶ丘高等学校の横を通り、清水1丁目付近(YWCAのある交差点)を経て、ビジネスホテル三島の南側をかすめるようにして、ここまでずっと地上を流れて見えている川です。そしてその最下流——JR呉線高架の手前で初めて暗渠に潜り込み、そのまま頭上の高架の下——つまり本物のめがね橋(境橋)(青山クラブに隣接)——をくぐり、最終的に堺川に合流して呉湾へ注ぐ川です。店主たちが覗き込んだのは、ビジネスホテル三島の前あたりの清水川。そこは「細い溝」なんてものではなく、両脇にコンクリートの足場があり、人が腰をかがめて歩けるほどの幅を持つ、しっかりとした一本の水路でした。その水路が頭上のJR呉線高架の手前で暗渠に潜り込む、その入り口——コンクリートのボックスカルバートのような長方形のトンネル口——から中を覗き込めば、確かに水路の奥に何かのアーチらしき影が見えました。覗き込みながら、友人が言いました——「あの中に、橋の脚があるんじゃと」。

水は少なかった。行こうと思えば、行けました。腰をかがめて暗渠の中へ入って行き、そのまま下流へ——JR呉線高架の方向へ——進めば、その下に眠っている「本物のめがね橋」まで辿り着けるはずでした。でも——暗渠の闇は、怖かった。中はずっと暗くて、奥がどうなっているかも見えなくて、結局店主は、入り口で踵を返したのです。

結局、店主は「本物のめがね橋」を自分の目で見ることはできませんでした。今でも

これが、本記事を書いている店主自身の、めがね橋を巡る最初の記憶です。後述しますが、この「呉市民でもめがね橋を知らない」という伝説は、実は、呉商工会議所理事から呉市理事・呉市議会議員を歴任し、昭和36年に郷土史『頼山陽の研究』で呉市芸術文化功労賞を受賞、昭和43年には呉史談会を設立して初代会長となった上田繁氏(1899-1973)が、1974年の遗稿集『眼鏡橋往来』ですでに予言していたとも言える話で、上田氏自身が「眼鏡橋の変わり果てた姿」と表現していました。半世紀後の店主が、そして令和の今もなお呉市民の一部が、その「変わり果てた姿」を「めがね橋そのもの」だと信じている——郷土史というのは、こういう静かな勘違いが何十年も持続することがあるのです。

第2章:清水川を辿る——ビジネスホテル三島の前で

地理の整理をさせてください。「めがね橋」と呼ばれる場所は、現在の呉市本通1丁目——第1回の四ツ道路から南へ歩いて行けば、自然とこの「めがね橋」交差点の信号機にぶつかる動線です。JR呉線高架橋の地下(呉集会所青山クラブに隣接)——ちょうどここに、本物のめがね橋(境橋)が眠っています。頭上を横切るのが呉線の高架、両側を商店街や飲食店が囲み、そこに「めがね橋」と書かれた時差式信号機の標識が掲げられている——これが現代の風景です。

では、本物の「めがね橋」が架けられていた清水川は、どこから来てどこへ流れているのか。流路を辿ってみましょう。

清水川(古称・境川)の流路

  1. 源流:休山
  2. 清水ヶ丘高等学校の横を通り南西へ流下
  3. 清水1丁目付近(YWCAのある交差点)を通過
  4. ビジネスホテル三島の南側をかすめる
    ——ここまではずっと地上を流れて見えている
  5. JR呉線高架の手前で初めて暗渠に潜り込む——そのわずかな区間が眼鏡橋(境橋)の上
  6. 暗渠のままJR呉線高架下の眼鏡橋(境橋)(青山クラブに隣接)をくぐる
  7. 最終的に堺川に合流し、そのまま呉湾へ注ぐ

※ 清水川は桧垣川とともに、古くは「境川(さかいがわ)」と呼ばれていました。これは宮原村と和庄村の村境を流れていたことに由来します。鎮守府建設時、その村境の川に堰堤として架けられたのが「境(さかい)橋(ばし)」——完成後、その白色の美しい姿から「眼鏡橋」と呼ばれるようになりました。さらに、上田繁『眼鏡橋往来』によれば、清水川の下流(眼鏡橋付近以下)を「境」として、その南側が海軍構内、北側が市民区域とされました。つまり「境」という言葉は、この川にとって上流は村境(宮原村と和庄村)、下流は海軍と市民の境界という、二重の意味をもっていたわけです。なお、清水川の流れ込む先である堺川は、この「境」の話とは別の、独立した川の名前です。

店主が学生時代に友人たちと覗きに行った場所、ビジネスホテル三島を目印に、もう一度位置関係を説明させていただきます。本通り側から国道31号方向へ歩くと、右手に「ビジネスホテル三島」が見えます。その南側をかすめるように清水川が地上を流れており、ホテルを過ぎてJR呉線高架の手前で初めて暗渠に潜り、JR呉線高架下の本物のめがね橋(境橋)(青山クラブに隣接)をくぐって、最終的に堺川に合流して呉湾へ注ぐのです。現在、地表で清水川の流れを目で確認できるのは、上流の休山方面からビジネスホテル三島周辺までの長い地上区間と、それがJR呉線高架手前で暗渠に潜り込むトンネル口まで。その先——眼鏡橋本体と堺川への合流点までは、すべて暗渠の闇の中です。

上田繁『眼鏡橋往来』(1974)の第1章「清水川」を開くと、清水川の地理がこう記されています。

「呉の眼鏡橋は、清水川にかけたのである。清水川は今の和庄通奥山地帯の和庄谷に源を発している。この川の下流を境にして、南側を海軍構内とし、眼鏡橋南詰めを海軍第一門とし、海軍の玄関口とした。清水川は谷から出る水勢が激しく、その名のとおり清くよく澄んでいた。川幅が広く、川口には広島本川、音戸からの撥船が殺到したものだ。」
——上田繁『眼鏡橋往来』(1974) より

つまり清水川は、休山方面の山(上田氏の言葉では「和庄通奥山地帯の和庄谷」)から流れ出し、清水ヶ丘高等学校の横・清水1丁目(YWCAのある交差点)を経て、現在の本通り・ビジネスホテル三島周辺までずっと地上を流れ、眼鏡橋付近で初めて暗渠に潜り、その下流を「境」として南側が海軍構内、北側が市民区域と区切られた川です。そしてさらに最終的に堺川に合流して呉湾へ注ぐ——これが清水川の流路です。「川幅が広く、川口には広島本川、音戸からの撥船が殺到」していたという上田氏の証言は驚きで——今の大部分が暗渠化された姿からは想像もつかない、明治期には水運の要衝として撥船(はしぶね)が出入りしていた清流だったのです。鎮守府建設時に宮原村と和庄村の村境を分かつ川として「境川」と呼ばれ、桧垣川と並んでこの地域の生活の軸になっていた——それが清水川の本来の姿でした。

そしてもう一つ、上田氏の文章の中で店主が大切にしている一節があります。

橋の下を流れる川は埋め立てられ、今でも昔の橋脚が埋まったままである。いまや呉市営バスの眼鏡橋停留所として昔をしのぶだけだが」
——上田繁『眼鏡橋往来』(1974) より

これが、上田氏が1974年に書き残した「本物は地中に眠っている」という証言です。店主の友人が言った「本物は地中に埋まっとるんじゃ」という呉の若者たちの間の言い回しは、実は上田氏の本の言葉を、世代を超えて受け継いだものだったのかもしれません——少なくとも、店主の世代の呉ではそう言われていたのです。

ビジネスホテル三島の前で覗き込んだ暗渠。あの闇の奥に、確かに本物の眼鏡橋の橋脚が、明治期のままの姿で眠っています。店主が怖くて入れなかった暗渠の闇は、半世紀以上前にすでに上田繁氏が言葉で記録していた闇でもあったのです。

第3章:上田繁『眼鏡橋往来』が語る本物のめがね橋

『眼鏡橋往来』は、上田繁氏(1899-1973)が昭和40年(1965)9月から翌41年(1966)11月まで中国新聞に連載した記事を、氏の死去(昭和48年12月31日)後、ご子息の上田五球氏が遗稿・メモ・書籍類を整理し、父の供養として昭和49年(1974)2月2~月28日に出版した遗稿集です。奥付には「著者 上田繁/発行者 上田五球」と記されています。

五球氏の「あとがき」によれば、父・繁氏は三十代の頃から「いつの日か郷土史を書こう」と考えておられたそうで、五球氏が遗品整理中に「私が生まれた頃の新聞の切り抜きやメモ」が見つかったと記されています。長い準備期間を経て、昭和40年9月から翌41年11月まで、「鄙びた一漁村から東洋一の軍港へ発展し、そして終戦、瓦礫の街から戦後復興へと向った呉の明治百年を、くれ浦以来の人脈をたどりながら」絴られた連載が、後に本書として結実したわけです。本書の冒頭、章タイトル「清水川」の本文一行目から、読者は明治の呉に引き込まれます。

上田繁(うえだ しげる)略歴

  • 明治32年(1899)10月1日:呉市本通九丁目にて、父・常太郎、母・ツタの次男として生まれる
  • 学歴:五番町小学校→呉一中→早稲田大学商科を卒業
  • 大正12年(1923)3月:呉商工会議所入所
  • 大正14年(1925)3月:呉商工会議所理事に就任
  • 昭和12年(1937)5月:呉港運(株)入社
  • 昭和19年(1944)1月:呉市役所入所
  • 昭和21年(1946)8月:呉市理事として交通部長・生活部長・審議室長・渉外局長を歴任
  • 昭和26年(1951)4月呉市議会議員に当選 二期
  • 昭和36年(1961)10月:郷土史『頼山陽の研究』により呉市芸術文化功労賞を受賞
  • 昭和40年(1965)9月~昭和41年(1966)11月:中国新聞に『眼鏡橋往来』を連載
  • 昭和43年(1968)2月呉史談会を設立、初代会長となる
  • 昭和48年(1973)12月31日:死去 享年七十四才
  • 昭和49年(1974)2月:ご子息・上田五球氏が遗稿を編集し、遺稿集として『眼鏡橋往来』を创刊

※ 父・繁氏の座右の銘は、渋沢栄一から贈られた漢詩二句でした(詳細は第1回・四ツ道路編で扱っています)。

※ 出典:上田繁『眼鏡橋往来』(1974)巻末「上田繁 略歴」・「あとがき」(上田五球記、昭和49年2月25日付)・奥付より。

そして本書は、上田繁氏が人生の最後に中国新聞に連載し、ご子息が供養として集めた一冊だったという事実が、本書に独特の重みを賦与していると店主は思います。郷土史『眼鏡橋往来』は、単なる地誌ではなく、呉史談会初代会長・呉市議会議員二期・呉市芸術文化功労賞受賞者という、呉郷土史研究の第一人者が遺した「呉という街への置き手紙」なのです。

きらびやかな肩章をつけた海軍の高級士官が、胸を張って眼鏡橋を南から北へ渡る。海軍出入りのご用商人が、やや伏し目がちに、この橋を北から南へ通って行く。世界の三大提督といわれる東郷平八郎元帥、"呉海軍中興の祖"柴山矢八大将も、眼鏡橋を渡って町へ出かけ、呉発展に尽くした多くの民間人が、鎮守府もうでにこの橋を行き来した。
 海軍とともに育った呉の鎮守府と市街地を結んだのがこの眼鏡橋である。呉のどこにそんな橋があるだろうかと思われるだろうが、現在の本通一丁目から戦前の海軍構内に通ずる国鉄呉線ガード下の道路が、眼鏡橋の変わり果てた姿である。
——上田繁『眼鏡橋往来』(1974) 「清水川」より

「きらびやかな肩章」「胸を張って」「やや伏し目がちに」——一行ごとに、明治の呉の朝の光景が立ち上がります。高級士官は南から北(海軍区域から市街地へ)、ご用商人は北から南(市街地から海軍区域へ)。橋の上を行き交う服装と歩き方の対比だけで、当時の呉鎮守府がどれだけ強い権威的な存在だったかが伝わってきます。

そして上田氏自身が明言しているのです——「国鉄呉線ガード下の道路が、眼鏡橋の変わり果てた姿である」と。これは決定的な証言です。「変わり果てた姿」という表現は、上田氏が「現在の呉線ガード下の道路と、橋本体は別物だが、その場所こそかつて眼鏡橋が架かっていたところだ」という、場所の同一性と構造物の別物性を、文学的に表現しているのです。

上田氏はさらに、眼鏡橋の名前の由来と技術系譜について、こう書き継ぎます。

「眼鏡橋は、わが国近代文化科学技術発生の地、長崎の中島川にかかっているアーチ橋の技術をとり入れて造られた。長崎の橋は日本で最も古い石橋で1634年(寛永十一年)に唐寺興福寺の住職黙子如定がかけたと伝えられる。真ん中に橋柱が一つあって満潮時には橋が水面に影を落とし、めがねのような印象を与えるのでこの名が生まれた。」
——上田繁『眼鏡橋往来』(1974) より

長崎の中島川にある眼鏡橋(1634年・寛永十一年)——日本最古級の石造アーチ橋で、二連のアーチが水面に映って「めがね」のように見えることが名前の由来です。呉の眼鏡橋は、その長崎の技術系譜にあったのです。明治の呉が、わざわざ江戸期長崎の石造アーチ橋技術を取り入れて、海軍第一門前に橋を架けた——この事実だけで、明治政府がどれだけ呉鎮守府を大切に整備しようとしたかが伝わってきます。

第4章:呉市公式案内板が語る事実——「境橋」明治21年竣工

上田繁氏の証言を補完してくれるのが、現在「めがね橋」交差点近くに立てられている呉市の公式案内板です。店主が現地で何度も読み返した案内板の現物を、ここに掲げます。

呉市が設置した『眼鏡橋』公式案内板の現地写真。青地に白文字の解説プレートに、眼鏡橋の歴史(明治20年地質試験、明治21年3月31日竣工、昭和2年鉄道線路高架設置決定、昭和10年青山クラブ改築工事に伴う敷地拡張・河川埋立、現在は地中に遺構が残存)が記載されている。右側には2枚の古写真が掲載——上段「眼鏡橋 海軍一門前(Jiganebashi at Kure)」、下段「眼鏡橋(海軍第一門付近)明治末期〜大正初期」。案内板の設置者は呉市。青いフェンス、植栽、後方に赤茶色の建物(青山クラブのレンガ壁面)が見える。
呉市が設置した「眼鏡橋」公式案内板(店主撮影/2026年6月、めがね橋交差点近くにて)。青地に白文字で明治20年(1887)9月の地質試験から現在の地中遺構までの歴史が簡潔に整理されており、右側には2枚の貴重な古写真——上段「眼鏡橋 海軍一門前(Jiganebashi at Kure)」、下段「眼鏡橋(海軍第一門付近)明治末期〜大正初期」——が掲載されています。案内板の背後にちらりと見える赤茶色の壁面が、本記事のもう一つの主役・青山クラブの現在のレンガ調外壁です。本物の眼鏡橋・青山クラブ・呉市の公式記述——本記事の三つの一次資料が、この一枚の写真に同居しています。

呉市公式案内板「眼鏡橋」より

  • 設置場所:呉鎮守府の海軍第一門前
  • 海軍資料での呼称:「境橋」(さかいばし)
    ——鎮守府建設時、宮原村と和庄村の村境を流れる川(清水川・桧垣川は古くは「境川」と呼ばれた)に堰堤として架けられた橋という意味
  • 明治20年(1887年)9月:地質試験
  • 明治21年(1888年)3月31日:竣工(石垣・堰堤工事と同時)
  • 昭和2年(1927年):呉~三原鉄道敷設のため、第一門道路上に鉄道線路高架設置が決定
    ——頭上の呉線高架はこの時の別系統構造物
  • 昭和10年(1935年):青山クラブ改築工事に伴う敷地拡張・河川埋立
  • 現在:埋立により地中に埋設、陸上からは見えない
    ——地中に遺構が当時の姿で残存

つまり、本物の眼鏡橋の正体は、こうです——明治21年(1888年)3月31日竣工、海軍資料での正式名称「境橋」。呉鎮守府建設時、宮原村と和庄村の村境を流れる川(桧垣川とともに古くは「境川」と呼ばれた清水川)に堰堤として架けられた橋——これが「境橋」の名前の由来です。完成後、その白色のすばらしい姿から人々は「眼鏡橋」と呼ぶようになりました。「眼鏡橋」は通称・愛称で、海軍の公文書では「境橋」と呼ばれていたわけです。

そして決定的なのは、昭和2年(1927年)に呉~三原鉄道敷設のための鉄道線路高架設置が決定されたという事実。これが、今頭上を走るJR呉線の高架の起源です。本物の眼鏡橋(明治21年・石造アーチ)と、頭上の呉線高架(昭和2年・鉄道用鉄橋)は、設計年で実に39年も離れた、完全に別系統の構造物なのです。

では本物はどこへ行ったのか。昭和10年(1935年)、青山クラブの改築工事に伴う敷地拡張で、清水川とともに本物のめがね橋は埋立てられました。地上からは見えなくなりましたが、橋本体は壊されたわけではなく、地中に当時の姿で遺構として残存している——これが現在の呉市公式案内板の記述です。

店主が学生時代に友人と覗き込んだあの暗渠の闇の奥には、確かに明治21年竣工の石造アーチ橋が、令和の今もそのまま眠っているのです。

上田繁氏の「明治二十三年四月に完成」という記述と、呉市公式案内板の「明治21年3月31日竣工」という二つの年代について、店主は両説併記が誠実だと考えております——前者は「明治23年4月21日・明治天皇行幸の呉鎮守府開庁式に合わせた本格供用」を指している可能性が高く、後者は「橋本体の物理的な竣工」を指している、と理解すれば矛盾なく整合します。橋は明治21年に物理的には完成していたが、明治23年の鎮守府開庁とともに、海軍第一門の正面玄関橋として本格的に役目を果たし始めた——という時間軸です。

第5章:単アーチか二連か——長崎との構造の違い

もう一つ、郷土史好きの方には興味深い論点があります。呉の眼鏡橋は、長崎の技術系譜にあるけれども、構造は同じではないのです。

長崎の眼鏡橋(1634年)は、上田氏の引用にあった通り「真ん中に橋柱が一つあって」——つまり二連アーチです。二つのアーチが並んで水面に映ることが「めがね」の名前の由来。これは中国の宋代に成立した石造アーチ橋技術が、長崎の唐寺住職を経由して伝えられたものです。

では呉の眼鏡橋は二連だったのか、単アーチだったのか——呉市公式案内板に掲載されている古写真「眼鏡橋(海軍第一門付近)明治末期〜大正初期」が、決定的な証拠を提供しています。前章で触れたとおり、この古写真は平成に入ってから井上博義氏が提供された1枚の葉書と同一と推定されるもので、店主が現地で確認したところ、この葉書画像には単アーチの石造アーチ橋が明確に写っています。眼鏡橋の雄姿の構造証拠は、この一枚だけと言っても過言ではありません。

つまり整理すると、こうです——

  • 長崎の眼鏡橋(1634年):二連アーチ/中国の石造アーチ技術を取り入れた日本最古級の石橋
  • 呉の眼鏡橋(明治21年=1888年)単アーチ/長崎のアーチ橋技術系譜にあるが、清水川の川幅に合わせた独自の単アーチ構造

250年以上の時を超えて、長崎で生まれた石造アーチ橋技術が、明治の呉で「海軍鎮守府の正面玄関橋」として継承された。しかし呉では、清水川の川幅(明治期は撥船が出入りするほどの広さがあったとはいえ、長崎中島川ほどではなかったでしょう)や、明治期の予算事情、海軍主導の工期などから、単アーチで建造された——技術系譜を受け継ぎながら、独自の進化を遂げた橋。これが呉の眼鏡橋の構造的な特徴です。

ちなみに、店主は第1回(四ツ道路編)を書いていた当時、眼鏡橋を「清水川に架かっていた単アーチの石造橋」とお伝えしていました。その後の現地調査と一次資料の精読を経て、この記述が結果的に正しかったことが確認できましたので、本記事で改めて「単アーチであった」と確定的に書かせていただきます。郷土史の世界では、こうして一つの記述を何度も確認し、補強しながら、街の記憶を確かなものにしていくのです。

第6章:青山クラブ全史——明治36年から令和9年解体まで

さて、ここまで眼鏡橋を辿ってまいりましたが、本記事のもう一つの主役、青山クラブのお話に移らせていただきます。まずは、店主が今年撮りに行った、解体直前の青山クラブの姿をご覧ください。

解体直前の青山クラブを店主が現地撮影した全景写真。2026年6月、赤茶色のレンガ調外壁、特徴的なR形状(半円形カーブ)のファサードが高い青空を背に美しく聳えている。三階建て、横長連続窓、陸屋根、左端に煙突状の点迫部。手前にレンガ調の歩道と植込、道路と【入船山】・【呉駅】表示の道路標識が見える。
解体直前の青山クラブ——昭和11年(1936年)竣工、築91年を迎えようとする姿(店主撮影/2026年6月)。高い青空に聳える、赤茶色のレンガ調外壁と、本記事の核心モチーフともいうべきR形状(半円形カーブ)のファサード。このR形シルエットこそが、令和13年(2031年)に誕生する新複合施設に「イメージ継承」される建築的DNAです。令和9年(2027年)に解体されるこの姿を、今、選んで記録しました。

冒頭でも触れたとおり、令和8年(2026年)3月に呉市が発表した『幸町地区総合整備基本計画(案)』により、青山クラブの全史が、戦前から未来までを貫く一つの年表として公式に整理されました。店主の学生時代の記憶も含めて、ここに記録します。

青山クラブ全史(呉市公式記述に基づく)

  1. 明治36年(1903年):海軍下士卒集会所として建築
  2. 昭和11年(1936年):下士官集会所として建て替え
    ——RC造地上3階・地下1階・延べ10,927.2㎡(現存建物)
  3. 戦後直後(昭和20年代)〜昭和31年(1956年)英連邦占領軍(オーストラリア軍中心)が「呉ハウス」として使用
  4. 昭和33年(1958年)〜平成29年(2017年):海上自衛隊の福利厚生施設(=店主の学生時代のボーリング場時代)
  5. 平成30年(2018年)7月〜:呉市が管理
  6. 令和8年度(2026年度):建物調査・解体設計(部材選定)
  7. 令和9年度(2027年度)解体実施(築91年)
  8. 令和13年度(2031年度):跡地に新複合施設・供用開始(R形状ファサードを継承)

令和8年3月の公式計画書では、青山クラブの戦後直後について、はじめてはっきりと書かれた一文があります——「戦後は、オーストラリア軍などにより編成された英連邦占領軍が『呉ハウス』として使用」。これは店主にとっても初耳の事実でした。英連邦占領軍(BCOF = British Commonwealth Occupation Force)は、戦後のGHQ統治期に呉を中心とした中国地方を担当したオーストラリア軍主体の進駐軍で、青山クラブは彼らの将校クラブ・厚生施設として「Kure House / 呉ハウス」と呼ばれていたのです。

そしてもう一つ、青山クラブの壁面には、青山クラブそれ自身の呉市公式案内板も掛けられています。店主が現地で撮めていたその一枚を、ここに掛げさせていただきます。

青山クラブ壁面に掛けられた呉市公式案内板と「海上自衛隊 呉集会所」のプレート、そして「種目 事務所建 / 建物番号 1」の金属プレート。案内板本文には青山クラブの概要(明治36年竣工、昭和11年建て替え、戦時中は海軍と市民をつなぐ交流の場、戦後昭和31年まで英連邦占領軍「呉ハウス」、昭和33年から平成29年まで海上自衛隊厚生施設、平成30年7月以降呉市が管理)と当時の古写真2枚(U.S National Archives所蔵、昭和20年(1945)と昭和38年(1963))が掲げられている。下部には「この建物は、平成30年7月以降、呉市が管理しています。建物には耐震性がないため、地震の際は建物から必ず離れてください。呉市」の警告文。
青山クラブ壁面の呉市公式案内板(店主撮影/2026年6月)。「海上自衛隊 呉集会所」の古いプレートは「入口の『呉集会所』などの表示は、海上自衛隊が使用していた当時のものです」という註記付きで今も厳然と掛けられています。そしてもう一つ記録しておきたいのが、案内板に掛けられた2枚の古写真の出典表記——「U.S National Archives所蔵」。つまり青山クラブの戦後期の記録は、米国国立公文書館にも保管されているという、戦後占領期の国際的な史料価値を有しているわけです。

案内板本文には、もう一つ、公式計画書とはニュアンスが違う一文があります——「戦時中は海軍と市民をつなぐ交流の場として親しまれました」。青山クラブは海軍の下士官兵集会所という、一見閉ざされた軍の内部施設のように思われがちですが、実際は戦時中も市民に開かれた交流の場として機能していた。これは、戦後の「呉ハウス」時代、そして店主の学生時代のボーリング場時代とも連動する「青山クラブは、どの時代も市民に開かれていた」という、この建物の一貫した値質を、呉市自身が案内板で詠んでいたのです。

呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』p.17のページ全体。上部見出し「(イ) 青山クラブの外観デザイン継承・部材移設の考え方」、本文「外観デザインについては、有識者会議での取りまとめを踏まえ、多くの市民の印象に強く残っている現在の青山クラブの外観デザインを継承することを基本として、基本計画を策定します。」、その下に2枚の写真——図4-2-1「現在の青山クラブの外観」(赤茶色のレンガ調外壁、R形状ファサード、青空、道路、車)、図4-2-2「青山クラブ(昭和27年~28年)〈C.R.Butterworth氏提供〉」(明るい外壁、国旗掲揚ポール、植栽、街路樹、当時のクラシックカー、左下に「GIFT SHOP MO 41」の看板が見える=英連邦占領軍「呉ハウス」時代のショップ)。ページ番号「17」が下部中央に表示されている。
呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』p.17の全景——「(イ) 青山クラブの外観デザイン継承・部材移設の考え方」のページ。本文には「多くの市民の印象に強く残っている現在の青山クラブの外観デザインを継承することを基本として、基本計画を策定します」と明記されています。図4-2-1:現在の青山クラブの外観と、図4-2-2:青山クラブ(昭和27年〜28年)〈C.R.Butterworth氏提供〉——両写真に共通するR形状(半円形カーブ)のファサードこそ、令和の新複合施設に「継承」される建築的シンボルです。下段写真の左下にはよく見ると「GIFT SHOP MO 41」の看板が写っていて、これは英連邦占領軍「呉ハウス」時代の売店看板——占領期の生々しい現場ディテールです。

そして店主の学生時代——昭和の終わり頃、青山クラブは海上自衛隊の福利厚生施設として、市民にも開かれた場所でした。建物の中にはボーリング場があり、店主もたまに友人たちと遊びに行っていました。今でも建物の外観を見ると、まずあのレーン上を転がっていく硬いボールの音と、シューズのきしむ音が、記憶の底から立ち上がってきます。

そしてここに、もう一つ小さなディテールを記録しておきたいのです——青山クラブのボーリング場は、点数の自動計算がなく、手書きで自分でスコアを計算するタイプでした。ストライクは「X」、スペアは「/」、ストライク後の二投の加算、スペア後の一投の加算——その仕組みを、レーン横の小さな紙にカリカリと鉛筆で書き込みながら、店主は自分で計算していました。おかげで今でも、店主はボーリングのスコア計算の仕組みを諳んじることができます。

たかがボーリング場の手書きスコアの話——しかし、これは時代の記録でもあります。1980年代半ば以降、ボーリング場の自動スコア計算機(オートスコアラー)が一般化しました。手書きスコアでまだ営業していたということは、店主が通った青山クラブのボーリング場は、おそらく1970年代後半〜1980年代前半頃——日本のボーリング全盛期(1972年ピーク)の余韻がまだ残り、しかし設備の更新は進んでいなかった頃の「失われた呉」の最後の時代だったわけです。

令和8年3月の公式計画書には、青山クラブの歴史的価値を評価する、こんな一文があります。

「青山クラブが、海軍の下士官兵集会所として建設され、戦後は英連邦占領軍の『呉ハウス』として、その後は海上自衛隊の厚生施設として使用されるなど、呉の市民生活に密着した施設として歩んできたことを踏まえ、青山クラブの建物があった位置に、(新たな複合施設を)配置します。」
——呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』(令和8年3月) p.11 より

呉の市民生活に密着した施設」——この公式評価を、店主の手書きスコア時代のボーリング場記憶が、一つの小さな証言として裏付けます。役所の文書には決して載らない、ストライクと鉛筆と笑い声の話。しかしそれもまた、青山クラブが「市民に密着」した時代の、確かなディテールなのです。

第7章:海軍第一門の玄関——東郷平八郎が渡った橋

眼鏡橋と青山クラブは、空間的にも歴史的にも、密接に絡み合った双子のような存在です。眼鏡橋の南詰めに立っていたのが、呉鎮守府の「海軍第一門」——海軍の正面玄関です。そして青山クラブは、この海軍第一門の敷地に隣接した、海軍下士官兵の集会所として明治36年(1903年)に建てられました。眼鏡橋を渡って第一門をくぐり、青山クラブで仲間と食事や酒を共にする——明治・大正・昭和の呉海軍の士官・下士官たちの日常動線が、ここに集約されていたわけです。

上田繁氏の本に戻りますと、こんな一節があります。

「世界の三大提督といわれる東郷平八郎元帥、"呉海軍中興の祖"柴山矢八大将も、眼鏡橋を渡って町へ出かけ、呉発展に尽くした多くの民間人が、鎮守府もうでにこの橋を行き来した。」
——上田繁『眼鏡橋往来』(1974) より

東郷平八郎——日露戦争・日本海海戦の連合艦隊司令長官、世界の三大提督の一人。実はこの東郷平八郎が、若き呉鎮守府参謀長として呉に在任していた時期があり、その邸宅の離れが今も呉市内に現存していることを、店主は今回の取材で初めて知りました。令和8年3月の公式計画書には、こう書かれています。

旧東郷家住宅離れ(入船山公園内)

  • 建築年:明治23年(1890年)=幸町地区内で最古の建築
  • 構造:木造平屋建て・延べ37㎡
  • 来歴:呉鎮守府参謀長として在任していた東郷平八郎が明治23年5月から1年7ヶ月住んでいた邸宅の離れ
  • 移築:昭和54年(1979年)に入船山公園内に移築
  • 指定:平成9年(1997年)、国登録有形文化財に登録

明治23年5月——つまり呉鎮守府開庁(明治23年4月21日)のほぼ直後に、若き東郷平八郎は参謀長として呉に着任し、1年7ヶ月の間、呉に居を構えていました。その邸宅の離れが、現在も入船山公園内に保存されており、国登録有形文化財に指定されている——青山クラブの目と鼻の先に、です。

『眼鏡橋往来』の中に、東郷の長男・東郷彪(後の侯爵・貴族院議員)の話も出てきます。明治23年8月31日に眼鏡橋のたもと(現在の青山クラブの位置)に開校した私立尋常小学校「清水黌(しみずこう)」——後の淡水学校——の第一回卒業生が、この東郷彪だったのです。清水黌は江田島の海軍兵学校内「従道学校」、広島の陸軍第五師団「済美学校」と並ぶ、海軍関係者子弟のための私立校でした。校名「淡水」は『荘子』「君子の交わりは淡きこと水の如し」から取られた格調高いもの。校長は緒方正雄——わが国英才教育の権威でした。

上田繁氏は『眼鏡橋往来』の中で、「眼鏡橋のたもと、今の海上自衛隊集会所のあたりへ、明治二十三年八月三十一日清水黌が開校した」と書いています。上田氏が執筆していた1974年時点での「海上自衛隊集会所」=現在の青山クラブの位置、ということです。つまり青山クラブが立つこの場所は、明治23年に清水黌(淡水学校)が開校した、呉の近代教育発祥の地でもあるのです。

眼鏡橋・海軍第一門・東郷平八郎邸の離れ・清水黌(淡水学校)・青山クラブ——明治の呉鎮守府開庁の瞬間から、これらは一つの空間的な物語として絡み合いながら、現在の幸町地区を形作ってきました。そのうちの一つ、青山クラブが令和9年(2027年)に解体されることが、令和8年3月に決まりました。

第8章:『この世界の片隅に』ロケ地として——戦時下の呉と現代

青山クラブの建物の正面入口アーチには、『この世界の片隅に』呉市ロケ地MAPが掲示されています。そう、このように。

青山クラブ正面アーチに掲示された『この世界の片隅に』呉市ロケ地MAPの現地写真。カラフルなイラストMAPにコマの表情、呈子茶色の魚介、外・休山・長代・などの地名・イラスト・右側に昭和期呉のロケ地写真4枚。左側に「自衛隊広島地方協力本部 呉地域事務所」「海上自衛隊呉地方総監部 援護業務課」「海上自衛隊 呉音楽隊」の3枚の黒字プレート、右側に「呉集会所」のプレートが掛けられている。赤茶色のレンガ調壁面のアーチの内側に設置されている。
青山クラブ正面アーチの『この世界の片隅に』呉市ロケ地MAP(店主撮影/2026年6月)。赤茶色のR形ファサードを背に設置されたカラフルなMAPは、作品の中に描かれた呉と現実の呉を一枚に重ねています。そしてMAPと並んで掛けられたもう三枚のプレート——「自衛隊広島地方協力本部 呉地域事務所」「海上自衛隊呉地方総監部 援護業務課」「海上自衛隊 呉音楽隊」——は、青山クラブが今も現役の自衛隊関連スペースとして機能していることを示しています。特に「呉音楽隊」のプレートは、後述する桜松館(昭和4年築・元海軍講堂・現・海上自衛隊呉音楽隊庁舎)ともリンクした、幸町地区の現在を語る一枚です。

先日の本引取り完結編でお父様の本を運び出した帰り道、店主はこの青山クラブの前を通って、海軍病院坂を上っていきました。『この世界の片隅に』(原作:こうの史代/監督:片渕須直)——戦時下の呉を舞台にしたこのアニメ作品は、呉の街そのものを世界に知らしめた作品です。

青山クラブがロケ地マップの掲示場所に選ばれているのには、深い意味があります。戦時下の呉海軍下士官集会所として実際に機能していた建物、戦後は英連邦占領軍が「呉ハウス」として接収した建物、そして戦後の海上自衛隊厚生施設として呉市民にも開かれた建物——青山クラブは、戦争・占領・復興・現代に至る呉の近現代史を一つの建物の中に凝縮した、稀有な歴史的建造物なのです。

映画『この世界の片隅に』が描いた、ごく普通の市井の人々の暮らしと、戦災と、それでも続いていく日々——その物語が、青山クラブの前を通る現代の観光客や呉市民にも届くようにと、ロケ地マップは設置されています。「戦時下の呉」と「現代の呉」を、青山クラブという建物が、文字通り橋渡ししているのです。

第9章:戦災と戦後の風景の重なり

呉は、第二次世界大戦末期に激しい空襲を受けた街です。昭和20年(1945年)3月19日の呉軍港空襲、6月22日の呉海軍工廠空襲、7月1日〜2日の呉市街地空襲、7月24日・28日の呉軍港空襲——一連の呉空襲で、市街地の大部分が焼け野原になりました。上田繁氏の本にも、淡水学校第一回卒業生・東郷彪の家(清水通二丁目)が「昭和二十年七月一日B29の空襲で焼失した」と記録されています。

しかし、青山クラブは焼け残りました。鉄筋コンクリート造・延べ10,927.2㎡という戦前の堅牢な構造が、空襲の業火に耐えたのです。だからこそ戦後、青山クラブは英連邦占領軍によって「呉ハウス」として接収され、進駐軍の将校クラブとして使われ続けることができたのです。「戦災を耐えた建物」が、そのまま「占領期の象徴」となる——呉の戦後史は、こうした建物の物理的な連続性の中で進行しました。

そして、本物のめがね橋もまた——昭和10年(1935年)に青山クラブ改築工事で埋立てられた後、戦災を、戦後の都市計画を、高度成長期を、平成を、そして令和を通り抜けて、地中にずっと眠り続けています。地上で何が起ころうとも、暗渠の中ではめがね橋は明治21年の姿のままなのです。

店主の友人が言った「本物は地中に埋まっとるんじゃ」という一言の重さが、こうして層になって浮かび上がってきます。地中というのは、ただの埋立土の下ではなく、明治の海軍鎮守府開庁、大正の繁栄、昭和の戦災、戦後の占領、自衛隊時代、そして令和の都市再整備——その全てを通り抜けてきた呉の地層の最下層なのです。

第10章:失われゆく呉——『幸町地区総合整備基本計画(案)』の3案検討

そして、本記事のもう一つの核心——令和8年(2026年)3月、呉市が発表した『幸町地区総合整備基本計画(案)』の話に入らせていただきます。この計画書は全40ページ超、青山クラブと桜松館の在り方を独立章として扱う、極めて重要な公式文書です。令和7年(2025年)1月の「幸町地区総合整備エリアデザイン」提言、令和7年2月の「幸町地区総合整備方針」策定を経て、令和8年3月の基本計画(案)として結実したものです。

呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』p.3 図2-1「幸町地区と周辺地域の位置関係」。中央に呉駅、駅から250m・500m・750mの同心円スケール表示。幸町地区(青山クラブ・桜松館・入船山記念館・市美術館)はオレンジ色枠で東側に強調表示され、入船山記念館・市美術館と一体の歴史文化ゾーンとして位置づけられている。南に宝町地区(大和ミュージアム・てつのくじら館)、北西に中央地区商店街、西に堺川沿い公園エリア、南東に海上自衛隊呉地方総監部・呉教育隊。
幸町地区と周辺地域の位置関係(図2-1)。呉駅の北東、堺川の東側に位置する幸町地区には、青山クラブ・桜松館・入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎=国の重要文化財)・呉市立美術館などが集積。大和ミュージアムから徒歩圏内の歴史文化ゾーンです。(出典:呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』(令和8年3月) p.5 より引用)

計画書の整備コンセプトは、明確で美しい言葉で表現されています——

「呉の歴史と文化を未来へ

〜つどう・つながる・感じる・育む〜」

——呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』(令和8年3月)

そして、3つの機能が定められました——①「呉の歴史を伝え、感じる施設」、②「文化・芸術に親しみ、発信する施設」、③「まちの情報発信・賑わいの拠点」。これらを具現化するために、青山クラブ・桜松館の在り方が検討された結果、3案が比較され、最終的に1案が選定されました。

3案比較——なぜ全部解体新築が選ばれたのか

公式計画書p.14-16に記載されている3案を、一覧表に整理させていただきます。これは記事の核心です。

項目 a案・全部解体新築 ⭐選定 b案・外観保存 c案・一部保存
事業費合計 約64億円 約68億円 約87億円
青山クラブ解体費 約11億円 約11億円 約10億円
桜松館解体費 約3億円 約3億円 約3億円
新施設整備費 約50億円 約50億円 約43億円
外壁保存/一部保存・補強費 約4億円 約31億円
建物の扱い 全部解体/部材一部移設 R形状部分の外壁を保存 R形状部分の建物自体を保存改修

出典:呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』(令和8年3月) p.14-16 より店主作成

呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』p.14「(7)a 外観デザインの継承による全部新築案」のページ全体。整備概要・整備事業費・メリット・整備に当たっての課題が箇条書きで記載。事業費合計約64億円(内訳:青山クラブ解体費約11億円/桜松館解体費約3億円/新複合施設新築整備費約50億円)。メリットは「3案中事業費を最も抑えられる」「保存に係る補強・維持費用が発生しない」。下部に配置イメージ図(青山クラブ全体を青枠で「全部解体→新築」、隣接エリアに「新たな複合施設新築整備」、国道487号沿い、引用:Google Map)。
【a案・選定】全部解体新築案。青山クラブを全部解体し、外観デザインを継承した新たな複合施設を新築整備。事業費約64億円(3案中最安)。部材の一部を新複合施設に移設して活用。(出典:呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』(令和8年3月) p.14 より引用)
呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』p.15「b 外観保存案」のページ全体。事業費合計約68億円(内訳:青山クラブ外壁一部保存・補強費約4億円/青山クラブ解体費約11億円/桜松館解体費約3億円/新複合施設新築整備費約50億円)。メリットは「青山クラブの建物の印象的なRの形状部分のイメージを継承可能」。課題として「外壁保存に係る補強費用が必要」「保存部分の外壁を残して解体する難易度が高く、解体費用が全部新築案よりも高額」「外壁の維持費用が新築に比べ将来にわたって多く必要」「外壁を保存する部分の建物の階高と新築建物の階高を合わせることができず、建物の機能性が損なわれる懸念」。下部に配置イメージ図(道路側R形状外壁部分のみ赤実線で保存、隣接エリアを青破線で新築)。
【b案・不採用】外観保存案。建物の印象的なRの形状部分を含めた外壁を保存し、残りを新築整備。事業費約68億円。外壁のみの保存は耐震・施工上の難易度が高く、外壁を残す部分の解体費用が全部解体より高額に。建物の機能性が損なわれる懸念も。(出典:呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』(令和8年3月) p.15 より引用)
呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』p.16「c 一部保存案」のページ全体。事業費合計約87億円(内訳:青山クラブ一部保存・改修費約31億円/青山クラブ解体費約10億円/桜松館解体費約3億円/新建物新築整備費約43億円)で3案中最高額。課題として「補強工事や建物内の地下水の対策工事が必要となり、整備費が最も高額」「維持管理費が新築する場合よりも高額」「補強により建物の活用可能面積が減少」「天井高が低くなり建物内部の使用方法が制限」「青山クラブの一部保存部分の階高と新築建物の階高を合わせることができないため、接続部分の調整が必要(スロープの設置等)」「現行の建築基準法(昭和25年法律第201号)施行以前の建物であることから、現行の建築基準法基準に適合させることが困難であるおそれがあるため、歴史的建造物の特例を適用させるために、景観条例の整備等及び当該整備等に係る期間が必要」。下部に配置イメージ図(R形状側を赤枠で「一部保存」、隣接エリアを「新築整備」)。
【c案・不採用】一部保存案。Rの形状部分を含む建物の一部を保存・改修し活用、隣接に新築。事業費約87億円(3案中最高額)。既存の建築基準法(昭和25年法律第201号)施行以前の建物であるため、現行基準への適合困難、地下水対策、天井高制限による用途制限などの課題。(出典:呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』(令和8年3月) p.16 より引用)

3案を見比べて、店主が一番唸らされたのは、c案(一部保存案)に関する公式計画書の以下の記述です。

既存の建築基準法(昭和25年法律第201号)施行以前の建物であることから、現行の建築基準法基準に適合させることが困難であるおそれがあるため、歴史的建築物の特例を適用させるために、建築条例の整備等及び各建築指導に経る期間が必要となる。」
——呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』(令和8年3月) p.16 より

これは決定的な指摘です。青山クラブは昭和11年(1936年)築——建築基準法(昭和25年=1950年施行)よりも14年も前に建てられた建物です。現行の建築基準法に適合させようとすると、構造補強や設備改修が膨大になり、しかも歴史的建築物としての特例適用には条例整備の時間がかかる——保存活用が法的・技術的に極めて困難な建物だったわけです。

さらに、p.6の建物現状調査では、こう書かれています——「これまでの建物調査により、建物が耐震基準を満たしていないことや、基礎の一部に問題があること(地下がないエリアの基礎杭の腐食)が判明している」。耐震基準未達と基礎杭腐食。完結編でも触れた通り、青山クラブの建物外には「耐震性なし・地震時は離れること」という注意書きが既に掲げられています。

事業費の差(a案64億/b案68億/c案87億)、建築基準法上の困難さ、耐震性と基礎杭の問題——これらを総合的に勘案して、a案「全部解体・外観継承新築」が選定されたのです。一方で、計画書は同時にこう約束しています——「青山クラブのイメージを継承することを重視して、新たな複合施設は、現在の建物の配置と合わせて配置します」(p.10)、「多くの市民の印象に強く残っている現在の青山クラブの外観デザインを継承することを基本として、基本計画を策定します」(p.17)。

失われるもの——昭和11年(1936年)の本物の青山クラブの躯体、C.R Butterworth氏が撮影した昭和27-28年の写真に写るあの建物そのもの、そして店主が学生時代に手書きスコアでボーリングをした、あの建物。受け継がれるもの——R形状ファサードのイメージ、配置、そして「呉の市民生活に密着した施設」という記憶。「全部解体だから歴史を切り捨てた」というほど単純な話ではなく、また「外観継承だから問題ない」というほど軽い話でもない。失われゆく呉と、受け継がれる呉が、令和8年3月の決定の中で、はっきりと並べて書かれているのです。

第11章:受け継がれる呉——R形状ファサードの未来

では、新しい複合施設はどんな姿になるのでしょうか。計画書p.32-34に掲載されているイメージパース(完成予想図)を見ていきます。

呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』p.33「イ 新たな複合施設整備イメージ」と「ウ ホール整備イメージ」の2点パース。上段の新複合施設パースには公式吹き出しで「青山クラブのデザインを踏襲したRの形状」「内部の賑わいが外部にも伝わるデザイン」「人々を呼び込む動線」と明示。赤レンガ調外壁、中央のR形状部分に大きなガラスカーテンウォール(2階部分)、地上3階建て、青山クラブの特徴的なR形状を踏襲。下段のホールパースには「桜松館のデザインを継承したレリーフや列柱、2階の客席空間」「ホールと屋外(中庭)の一体的な利用を検討」と明示、平土間形式の客席に2階バルコニー、ステージ周りのレリーフ・列柱は桜松館から移設・再現を検討。
新たな複合施設整備イメージ青山クラブのデザインを継承したRの形状(画像内キャプションより)、内部の賑わいが外部にも伝わるガラスカーテンウォール、人々を呼び込む配置。赤レンガ調外壁が、青山クラブ・桜松館・呉海軍工廠時代から続く呉の建築的記憶を継承します。(出典:呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』(令和8年3月) p.33 より引用)

新複合施設に配置されるのは、美術館、ホール、音楽活動練習室、情報発信コーナー、フリースペース、物販・飲食スペース、多目的スペース・貸室。文化・芸術と賑わいの拠点として、子どもや高齢者も訪れやすい、国道沿いの「集客力あるエントランス」を目指すと計画書には書かれています。

そして、桜松館(昭和4年=1929年築・地区最古級RC建築・元海軍講堂)もまた、解体されます。ただしその跡地には建物を建てず、美術館通りと中庭をつなぐオープンスペースとして活用されます。

呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』p.34「エ 中庭整備イメージ」と「オ オープンスペース整備イメージ」の2点パース。上段の中庭パースには公式吹き出しで「青山クラブのイメージを継承する建物デザイン(列柱・バルコニー等)」「人々が憩い、集うことができる芝生の中庭空間」と明示、L字型建物に囲まれた芝生中庭、カラフルなパラソル、人々の賑わい、2階バルコニーから中庭を見下ろせる構成。下段のオープンスペース(桜松館跡地)パースには「バリアフリー動線(スロープ・EV・空中回廊の設置)」「キッチンカー等の車両が駐車できる舗装スペース」「人々が憩い、集うことができる芝生空間」と明示。
中庭整備イメージ(上)とオープンスペース整備イメージ(下)。中庭は「青山クラブのイメージを継承する建物デザイン(湾曲・バルコニー等)」「人々が集い、憩うことができる芝生の中庭空間」。オープンスペース(桜松館跡地)はバリアフリー動線・キッチンカー駐車・芝生空間。市民の日常的な憩いの場として再生されます。(出典:呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』(令和8年3月) p.34 より引用)
呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』p.32「ア 幸町地区総合整備イメージパース」全体俯瞰。赤レンガ調の新複合施設を中心に、背後に入船山の豊かな緑、屋上緑化テラス、青山クラブのR形状を踏襲したファサード。中庭には芝生・パラソル・キッチンカーで賑わう市民が描かれ、空中回廊が入船山記念館側へ伸びる。地上3階建て程度の規模、南東側(国道487号側)上空から北西方向を見下ろすアングル。公式コンセプト「市民が普段から利用(活動・交流)し、多くの来訪者が訪れ、滞在することで、にぎわいを創出するとともに、落ち着いた雰囲気で歴史・文化を感じることができる地区」を視覚化。
幸町地区総合整備イメージパース・全体俯瞰赤レンガ風の複合施設を中心に、背後に入船山の緑、屋上緑化テラス。新複合施設(青山クラブ跡地)・中庭(青山クラブ・桜松館の中間)・オープンスペース(桜松館跡地)・空中回廊(入船山記念館への接続)が一体となって整備されます。(出典:呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』(令和8年3月) p.32 より引用)

さらに、現在の幸町地区が抱える「敷地に高低差があり、現在敷地内には階段しかない」「青山クラブ・桜松館の敷地と入船山公園駐車場は、美術館通りによって分断されている」という動線課題に対応するため、「空中回廊」が新設される予定です。これは新複合施設と入船山記念館・入船山公園駐車場とを繋ぐ歩道で、地区の新しいシンボリックな構造物になる可能性があります。

そしてスケジュールが、明確に表で示されています。

呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』p.39 表5-3「今後のスケジュール」。令和8年度〜令和13年度の6カ年計画を示す工程表。青山クラブ・桜松館は令和8年度に「建物調査・解体設計(保存・活用する部材の調査等)」、令和9年度に「解体(部材保存)」と明記され、解体時に部材を保存することが公式に決定。新たな複合施設は令和8年度に基本計画(美術館)、令和9年度に基本設計、令和10年度に実施設計、令和11-12年度に新築工事、令和13年度に供用開始。市美術館本館は令和11年度基本設計・令和12年度実施設計・令和13年度改修工事。中庭・オープンスペース・空中回廊・入船山(樹木管理等)はいずれも令和9年度基本設計・令和10年度実施設計・令和11-12年度整備工事・令和13年度供用開始。
幸町地区総合整備スケジュール(表5-3)令和8年度(2026):建物調査・解体設計/令和9年度(2027):青山クラブ・桜松館 解体/令和10〜12年度(2028〜2030):設計・整備工事/令和13年度(2031):新複合施設・中庭・オープンスペース・空中回廊・入船山公園が一斉に供用開始。6年間の整備計画。(出典:呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』(令和8年3月) p.39 より引用)

2026年6月——本物の青山クラブを見られる時間は、あと1年と少し

  • 令和8年度(2026年度):建物調査・解体設計(部材選定)
  • 令和9年度(2027年度)青山クラブ・桜松館 解体実施
     └ 青山クラブ:1936年築・築91年での解体
     └ 桜松館:1929年築・築98年での解体
  • 令和10〜12年度(2028〜2030年度):新複合施設の設計・整備工事
  • 令和13年度(2031年度)新複合施設・中庭・オープンスペース・空中回廊・供用開始

本記事を書いている2026年6月時点で、本物の青山クラブが見られる時間は、あと1年と少し。令和9年度(2027年度)に解体が始まれば、店主が学生時代に手書きスコアでボーリングをしたあの建物は、もう物理的にはこの世に存在しません。代わりに、令和13年度(2031年度)からは、R形状ファサードを継承した新しい複合施設が、その記憶を引き継ぐ形で立ち上がります。失われゆく呉と、受け継がれる呉——その分水嶺の瞬間に、本記事は書かれているのです。

呉市は今、戦後最大級の都市再生期にあります。①幸町地区総合整備、②呉駅周辺地域総合開発、③呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)リニューアル、④呉まちなか公共空間デザイン——4つの大型プロジェクトが同時並行で進行しているのです。眼鏡橋編は、ただ一つの建物・一つの橋の話ではなく、この大きな都市の動きの中で、何が失われ、何が受け継がれるのかを、古本屋の立場から記録する試みでもあります。

第12章:地層としての呉、そして古本屋の役目——シリーズ全5回の中で

先日の本引取り完結編で、店主は呉の街を「三層の地層」として捉えました——①本物の遺構(地中に眠るめがね橋・国登録有形文化財の旧東郷家住宅離れなど)、②演出されたレトロ(KURE GATEの赤レンガ調建築・観光向けボンネットバスなど)、③現役の生活景(本通り商店街・ビジネスホテル三島・現代の人々の暮らし)。眼鏡橋編は、この三層がもっとも凝縮された場所を、辿る記録になりました。

そして令和8年3月の公式計画書によって、もう一つの層が加わりました——④未来の景観(2031年に立ち上がるR形状ファサードの新複合施設)。地層は地中の遺構から始まり、現代の建物を経て、未来の都市計画へと、垂直に積み上がっていきます。古本屋の役目は、その地層を読み解き、紙の上に記録することなのだと、店主は今回の取材を通じてあらためて感じました。

『眼鏡橋往来』(1974年・上田繁)から半世紀。上田氏が「変わり果てた姿である」と書いた風景は、令和9年に再び大きく変わろうとしています。しかし変わり方は連続しています——明治21年の石造アーチ橋が昭和10年に埋立てられ、昭和11年の青山クラブが令和9年に解体され、令和13年に新しい複合施設が立ち上がる。失われる呉と、受け継がれる呉は、いつもセットで動いているのです。店主の古本屋に飛び込んでくる戦前絵はがき、郷土史家の遺稿、お父様の蔵書、そして役所の計画書——それらは全て、この連続性の一部です。

シリーズ「失われた呉を辿る」全5回の中での位置づけ

本記事は「失われた呉を辿る」シリーズの第2回です。シリーズ全5回の構想は以下の通りです——

シリーズはまだ折り返しに来たばかりです。眼鏡橋編で確認した上田繁氏『眼鏡橋往来』の証言と呉市公式案内板、そして令和8年3月の幸町地区基本計画——これらを縦糸にして、湯之崎・亀山神社・銀座デパートと、呉の街を地層として辿っていきます。お読みいただいているお父様、お母様、お嬢様、そして呉に縁のある皆様、引き続きお付き合いいただけますと幸いです。

そして、店主が古本屋として皆様にお伝えしたい一番大切なこと——もしご自宅に呉の戦前絵はがき、海軍関係の資料、郷土史の本、お父様お祖父様の手書きのメモ、戦後の写真などがありましたら、捨ててしまう前に一度ご相談いただけませんでしょうか。本記事の中で何度も引用させていただいた上田繁『眼鏡橋往来』(1974)も、C.R Butterworth氏の昭和27-28年の青山クラブ写真も、誰かが「これは大事なものかもしれない」と残してくださったからこそ、今こうして店主が記事に書けるのです。

令和9年度(2027年度)、青山クラブと桜松館は解体されます。建物はなくなっても、写真は、本は、メモは、絵はがきは残ります。古本屋アッシュ書店は、そうした「失われゆく呉」の紙の記憶を、次の世代に渡す中継地点として、これからも仕事をしていきたいと考えております。本日も、最後までお読みいただき、まことにありがとうございました。

本記事の主要な一次資料

  • 呉市公式案内板「眼鏡橋」「青山クラブ」(現地確認・2026年6月)
  • 上田繁『眼鏡橋往来』(1974年・中国新聞連載追悼出版)第1章「清水川」
  • 呉市『幸町地区総合整備基本計画(案)』(令和8年3月)全40ページ超
  • 店主自身の学生時代の記憶(自転車通学・友人との会話・ビジネスホテル三島前の清水川・青山クラブのボーリング場)
  • C.R Butterworth氏提供 青山クラブ昭和27-28年頃の写真(上記計画書 p.17 図4-2-2より)
  • 『ブラタモリ』(NHK)呉特集回の記憶

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