この記事の概要
台風当日の2026年6月2日、出張買取をすべて延期して店にこもった一日、先週買取した書籍に紛れていた一枚の戦前絵はがきが出てまいりました。題字は「呉市本通リ四ツ道路」。写っているのは、現在も「本通り」の名で実在する南北軸と、そこを走る東西道が交わる十字の交差点——そしてその北西角に毅然と立つ三階建ての時計屋洋館。
郷土史『眼鏡橋往来』(上田繁・1974)の第7章「湯之崎商人町」を開くと、そこには井上文造の時計屋の記述が残されていました——銀座・服部時計店スタイルの和魂洋才建築。そしてもう一つの驚き——その『眼鏡橋往来』の著者・上田繁氏は、その著作生活の中で渋沢栄一から直接漢詩を揮毫してもらい、それを「座右の銘」としていたのです。新一万円札の顔・渋沢栄一は、広島水力電気を通じて呉に「電気」を送っただけでなく、呉の郷土史家に「言葉」も送っていた。電気と漢詩——二本の糸で、明治の呉と現代のこの店を繋げているんです。
こんにちは、呉市のアッシュ書店です。本日2026年6月2日(火曜日)、呉市は台風の影響でいよいよ荒れ模様になってまいりました。今日から明日(6月3日)にかけてが台風のピークと予報されており、本日と明日の出張買取はすべて延期させていただいております。お客様には大変ご不便をおかけしておりますが、昨日の広島市東区出張買取のブログでもお伝えした通り、大切な本を雨に濡らさないための判断です。何卒ご理解いただけますと幸いです。
そんなわけで、本日は外の風雨の音を聞きながら、店内にこもって長年手をつけられずにいた古い在庫の整理をしていたのですが——その途中で、思いがけない一枚と出会ってしまいました。戦前の呉を写した、一枚の絵はがき。題字は「呉市本通リ四ツ道路」。古いセピアの空気の中に、確かに百年前の呉の風景が立ち上がってきたのです。
この記事は、いつもの古本買取の実例レポートではなく、郷土史コラムとして書かせていただきます。古本屋を二十年やっていると、こうした「ふと出てきた紙片」が、自分の暮らす街の知らなかった顔を見せてくれることがあるのです。「失われた呉を辿る」と題して、今日から数回に分けて、この絵はがきを起点に呉の戦前風景をひもといていきたいと思います。
この記事でわかること
・戦前絵はがきに写る呉市本通リ「四ツ道路」の現在の位置(現・本通り×東西道の交差点/呉駅前→国道31号東進→本通り1丁目左折→次の信号)
・郷土史『眼鏡橋往来』(上田繁・1974)が記した井上文造の時計屋洋館の手がかり
・なぜ呉に銀座・服部時計店スタイルの洋館が建ったのか——明治後期の和魂洋才
・新一万円札の顔・渋沢栄一が支援した広島水力電気(1897年設立)と、呉に灯った電灯
・その渋沢栄一が、郷土史『眼鏡橋往来』の著者・上田繁に揮毫した「座右の銘」の漢詩と、電気と言葉という二本の糸
・1909年(明治42年)開業、広島県内初の路面電車「呉市電(チンチン電車)」は四ツ道路で曲がっていた
・古本屋が辿る、絵はがき・郷土史・記憶という三層の証言
・本シリーズ「失われた呉を辿る」全5回の予告(眼鏡橋・湯之崎・亀山神社・銀座デパート)
第1章:台風当日、店の片付けで一枚のセピアと出会う
本日2026年6月2日、呉市は朝から重い雲に覆われ、時折強い雨と風が窓を打っています。今日から明日にかけてが台風のピーク——という予報通り、外を歩く人もまばらです。店のシャッターを半分だけ下ろして、お預かりしているお客様の本を奥の安全な棚に移してから、ふと「今日と明日は店にいるしかないのだから、ずっと気になっていた奥の段ボールを開けてしまおう」と思い立ちました。古本屋というのは、自分の店の在庫が一番把握しきれていなかったりするものです。
奥から引き出した段ボールの中には、二十年前に大量に引き取った遺品整理の「紙物」がまだ手つかずで残っていました。古い写真、戦前の新聞切り抜き、団体の会報誌、そして——絵はがき類。明治・大正・昭和初期の絵はがきは、古書市場でも独特のジャンルで、戦災を免れた呉ならではの一枚が紛れていることがあります。慎重にめくっていくと、その一枚が出てきました。
題字は墨色のしっかりとした活版印刷で「呉市本通リ四ツ道路」。「通リ」のカタカナと、「四ツ」の小書きカナの混ぜ方が、確かに戦前——昭和ひと桁か、もしかしたら大正後期の組版です。背景はうっすらと色付けされた写真絵はがき。四方に延びる広い通り、両側に低い瓦屋根の商家が並び、そして交差点の北西角に毅然と立つ三階建ての洋館。路面電車の軌道の伸び方から推測すると、画角はおそらく四ツ道路の南側から北を向いて撮影された一枚です。瞬間的に、心臓が「とん」と鳴りました。
第2章:「四ツ道路」はどこなのか——呉の十字を読み解く
呉に住んだことのない方には少し説明が必要なので、地図を頭の中で広げてみてください。現在の動線で言うなら、呉駅前から国道31号を東へ進んで「本通り1丁目」交差点で左折し、そのまま本通りを北へひとつ目の信号——そこが四ツ道路です。Googleマップでは「intersection group」というラベルがついていることもあります(四つの道が一点で集まる交差群、という意味でしょうか)。呉という街は、戦前から現代まで一貫して非常に整然とした十字の街路構造を持っており、その交わる「十字」の節点こそが、絵はがきの題字にある「四ツ道路」です。
ここで一つ、呉の地理に不慣れな方が混同しがちなポイントを整理しておきます。呉の中心部には南北に走る主要な通りが2本、平行に走っています——東側の本通り(現在も「本通り」という名前で実在し、四ツ道路から北へ伸びる軸)と、その2本西を平行に走る中通商店街(レンガ通りとも呼ばれるアーケード商店街)。この二本は全く別の道です。そして絵はがきの題字にある「呉市本通リ四ツ道路」は、本通りのほうに位置する交差点で、現在も「本通り」の名前と位置はそのまま残っています。
そしてもう一つ、呉の街の記憶に深く関わる眼鏡橋のことも、ここで触れておかねばなりません。眼鏡橋は呉市公式案内板によれば呉鎮守府の海軍第一門前に架けられていた橋(海軍資料では「境橋」とも記述)で、明治21年(1888年)3月31日に竣工、市民区域と海軍区域を分かつ「境」に立つ橋でした。「眼鏡橋通り」という名の道は現実には存在せず、あくまで「眼鏡橋のあった辺り」というイメージで語られてきたものです。この橋は昭和10年(1935年)の青山クラブ改築工事に伴う敷地拡張・河川埋立とともに地中に埋設され、現在も陸上からは見えないものの、地中に遺構として当時の姿で残されていると案内板は伝えています。なお、頭上を横切る呉線の鉄橋は昭和2年(1927年)に呉〜三原鉄道敷設のため第一門道路上に設置が決定された別系統の高架構造物であり、眼鏡橋とは別物です(『ブラタモリ』でも紹介された通り、呉市民の中にも呉線鉄橋を「めがね橋」だと思っている方がいらっしゃるそうで——詳細はシリーズ第2回「眼鏡橋編」で改めて辿りたいと思います)。
戦前呉の「十字」構造(現在の地理と重ねて)
南北軸:本通り——四ツ道路から北へ伸び、北の亀山神社方面と南の港・呉駅方面を縦に貫く、呉の背骨。現在も同じ「本通り」の名で実在。
東西軸:四ツ道路を走る東西道——国道31号方面から本通り1丁目で入ってきて、本通りと交差してさらに西へ抜けていく、暮らしと商業の軸。
この二本が交わる十字の節点が、絵はがきの題字「四ツ道路」。呉市電(チンチン電車)もこの四ツ道路で方向を変えていたといいます。
※混同注意:本通りと、その2本西を平行に走る中通商店街(レンガ通り)は、名前も位置も完全に別の道です。本記事では、絵はがきの題字と現在の地名に忠実に、本通り=本通り(中通商店街とは別道)として記述しています。
絵はがきを改めて見ると、画角は四ツ道路の交差点を斜めから捉えています。路面電車の軌道の伸び方から推測すると、画角はおそらく四ツ道路の南側から北を向いて撮影された一枚です。四方に道が抜けていく開放感、そして交差点の北西角に毅然と立つ三階建ての洋館。これが今回の主役、井上文造の時計屋でした。
第3章:郷土史『眼鏡橋往来』が記した、井上文造の時計屋洋館
絵はがきを見つめながら、ふと「そういえば——」と思い出したのが、先週買取させていただいた書籍の中に紛れていた一冊の郷土史本でした。当店は買取専門で店頭販売はしておりませんが、ジャンルごとに仮整理しているコーナーから引き抜いてみると、それが上田繁『眼鏡橋往来』(1974年刊)でした。明治から昭和戦前にかけての呉中心部の暮らしを、当時を覚えている古老の証言を集めて綴った貴重な郷土史で、当店でも数年に一度入荷するかしないかという稀少な一冊。今週この本が手元に来てくれて、本当によかった——絵はがきを前にしながら、そう思いました。
目次を辿って、第7章「湯之崎商人町」を開きました。湯之崎というのは、四ツ道路の周辺、戦前呉の最も華やかだった商業・歓楽地区の総称です。この章には、富貴亭という寄席があったこと、板垣キヨという女性が経営する料亭があったこと、踊りの藤間勘久治師匠が住んでいたこと——昭和の早い時期に消えてしまった呉の歓楽街の名前が、丁寧に拾い上げられています。
そして、その章の中盤に、井上文造の時計屋の記述が現れたのです。曰く——四ツ道路の角に、井上文造という人が時計屋を構えていた。店構えは銀座・服部時計店スタイルの三階建て洋館で、当時の呉ではひときわ目立つ建物だった、と。読んだ瞬間、絵はがきと郷土史が重なり合いました。絵はがきに写っている洋館は、間違いなくこの井上文造の時計屋です。
一次資料:上田繁『眼鏡橋往来』(1974)第7章「湯之崎商人町」より
四ツ道路の角に位置していた井上文造の時計屋は、東京・銀座の服部時計店(現セイコー)スタイルの三階建て洋館でした。同章には、寄席富貴亭、料亭の板垣キヨ、踊りの藤間勘久治といった、戦前呉の湯之崎商人町を彩った人物・店舗が並んで記載されています。
本書は呉郷土史の一次資料として価値が高く、戦前の呉の街並みと暮らしを、当時を覚えている方の証言から再構成した貴重な記録。当店でも数年に一度入荷するかしないかという稀少な一冊で、今回も先週の買取書籍の中にたまたま紛れていた一冊でした。
第4章:なぜ呉に「銀座スタイル」の洋館が建ったのか
ここで素朴な疑問が湧きます。なぜ呉に、東京・銀座の服部時計店を模した洋館が建ったのか。これを理解するには、明治後期から大正にかけての呉の都市的位置づけを思い出す必要があります。
呉は1889年(明治22年)に呉鎮守府が開庁、1903年(明治36年)に呉海軍工廠が設置されてから、海軍とともに急速に発展した街です。1902年(明治35年)には市制施行、人口は明治末期から大正にかけて爆発的に増えました。当時の呉は、東京・横須賀・佐世保と並ぶ海軍四鎮守府都市の一つであり、軍人・技術者・職人とその家族が日本中から集まる、当時の日本でも有数の「新興の近代都市」だったのです。
都市が大きくなれば、暮らしを彩る商業も育ちます。海軍士官たちは月給取りで、現金経済を回す消費者層です。彼らの妻や子どもたちが日常的に買い物に訪れる場所——それが本通りと四ツ道路でした。時計というのは、当時の人々にとって「近代を身につける道具」そのもの。鉄道のダイヤ、工場の始業、軍隊の点呼——すべてが時計によって動き始めた時代に、四ツ道路の角に時計屋があったというのは、極めて象徴的な配置です。
そして「銀座・服部時計店スタイル」。1894年(明治27年)に銀座四丁目の角に建てられた服部時計店(現・和光本館の前身)は、当時の日本人にとって「近代日本のショーウィンドウ」そのものでした。地方都市の時計屋がその意匠を模倣することは、単なる真似ではなく、「我が街もまた近代の最前線にある」という都市的な宣言だったと考えられます。海軍の軍港都市・呉は、その宣言を四ツ道路の角に掲げた——絵はがきに写る洋館は、そういう一枚なのです。
第5章:渋沢栄一・松本清助・黒瀬川——呉の広発電所が日本の電気史で果たした役割
絵はがきをよく見ると、洋館の近くに細い線——おそらく電線が走っているのが見えます。これは何気ない描写ですが、戦前呉の風景を読み解く上で、決定的に重要な手がかりです。なぜなら、その一本の電線の向こうに、日本の電気史を変えた、もう一つの呉の物語が広がっているからです。
呉に電灯が灯った背景には、広島水力電気株式会社(1897年=明治30年設立)があります。公益財団法人 渋沢栄一記念財団の公式記録によれば、この会社は広島の豪商・松本清助が、阪谷芳郎の勧めと渋沢栄一の支援を受けて、弟の松本万兵衛らとともに設立した会社でした(渋沢栄一は、ご存知のとおり現行の新一万円札の顔として選ばれた人物。「近代日本資本主義の父」と呼ばれ、500社以上の企業設立に関わった明治の巨人です)。渋沢は、設立時には発起人代表として、創業から1905年(明治38)までは取締役会長として、その後は1909年まで相談役として、同社の経営を支援しています。
そして地理的に大事なのは——この会社の発電所が、ほかでもない呉市の黒瀬川沿いの広(ひろ)に建てられたことです。「広発電所」と呼ばれたこの施設は、現在の呉市広地区。呉という街そのものが、地域電化の起点だったのです。
一次資料:NGK(旧・日本ガイシ)公式「がいしの歴史」第四章より
1899年(明治32)、日本で11kV高圧送電が初めて採用された——その2例のうちの片方が、呉の広発電所だった。
NGK公式「がいしの歴史」第四章には、こう記されています:「同年に、広島水力電気は黒瀬川沿いの広町に発電所を建設し、GE社製三相交流250kW発電機3台(750kW)によって得た電力を広島と呉に送電したもので、広島へ16マイル(約26km)、呉へ5.5マイル(約9km)の送電線にやはり米ロック社から輸入した15kV用「三層ピンがいし」が使われています」。
もう一例は同年・郡山絹糸紡績の沼上水力発電所。呉と郡山——日本の高圧送電の歴史は、この二つの地名から始まったのです。
渋沢栄一記念財団の公式記録は、広発電所から広島市までの送電を、「本邦に於ける遠距離送電の嚆矢(こうし)」と称された、と記しています。嚆矢——つまり「物事の始まり」。明治日本において、長距離・高圧で電気を送る技術が、まず呉から広島へ、9kmと26kmという距離を超えて伸びていった——その最先端の現場が、ここ呉だったわけです。
その後、広発電所は1944年(昭和19)に増設、姿を変えながら後に中国電力株式会社に継承されました(出典:渋沢栄一記念財団公式サイト「ゆかりの地」広島水力電気株式会社の項)。明治・大正・昭和を貫いて、呉の地で発電された電気が、地域を照らし続けた——これは郷土史としても、産業史としても、極めて誇るべき系譜です。
呉と日本の電気史——年表で見る系譜
1897年(明治30)——広島の豪商・松本清助が、阪谷芳郎の勧めと渋沢栄一の支援で広島水力電気株式会社を設立。渋沢は発起人代表に。
1899年(明治32)——呉市・黒瀬川沿いの広町に発電所建設。GE社製250kW発電機×3基(計750kW)、ロック社製15kV「三層ピンがいし」採用、11kV高圧送電を開始。広島へ約26km、呉へ約9km送電——「本邦に於ける遠距離送電の嚆矢」(渋沢財団公式)。
1905年(明治38)——渋沢栄一、取締役会長を辞任、相談役へ。
1909年(明治42)——渋沢栄一、相談役も辞任。同年、呉市電(広島県内初の路面電車)が四ツ道路で曲がりながら走り始める。
1944年(昭和19)——広発電所、増設。
戦後——広発電所は中国電力株式会社に継承。
出典:渋沢栄一記念財団「ゆかりの地」広島水力電気株式会社の項、NGK株式会社「がいしの歴史」第四章。
渋沢栄一 → 松本清助の広島水力電気 → 呉市黒瀬川の広発電所 → 11kV高圧送電 → 四ツ道路の電線 → 時計屋洋館のショーウィンドウを照らす光——絵はがきに写る一本の電線が、ここまでの系譜を背負っていたのです。
ところが——ここまで書いたところで、『眼鏡橋往来』をもう一度手に取って著者とあとがきを読み返していたら、渋沢栄一と呉を繋ぐ「もう一本の糸」が、この本の中にも描かれていたことに気がついてしまいました。しかもその糸は、電気じゃなく、言葉の糸なのです。
第6章:もう一本の糸——『眼鏡橋往来』著者・上田繁と、渋沢栄一の漢詩
『眼鏡橋往来』の本の末尾に、著者・上田繁氏の「略歴」と、ご子息・上田五球氏による「あとがき」が載っていました。その中に、戦栗した一節を見つけたのです。
上田五球氏は、亡き父・上田繁の遺稿を編集してこの本を追悼出版として仕上げた方です。そのあとがきには、こう記されています。
一次資料:上田五球「あとがき」(『眼鏡橋往来』昭和49年2月25日)より
「この『眼鏡橋往来』は鄙びた一漁村から東洋一の軍港へ発展し、そして終戦、瓦礦の街から戦後復興へと向った呉の明治百年を、くれ浦以来の人脈をたどりながら綴られています。これは言いかえれば父自身の履歴書であり又交友録でもあります。
父はかつて渋沢栄一先生より
待有餘而済人終無済人之日(餘有るを待ちて人を済はば、終に人を済ふの日無し)
待有暇而読書必無読書之時(暇有るを待ちて書を読まば、必ず書を読むの時無し)
と書いて頂き、これを座右の銘としました。」
息を呑むとは、このことでした。第5章で辿った渋沢栄一は、広島水力電気を通じて呉に「電気」を送っただけではなかったのです。同じ頃、呉のひとりの青年に、同じ人が「言葉」を送っていた——そしてその青年が、后年、今私が手にしているセピア色の絵はがきを読み解く郷土史『眼鏡橋往来』を書き上げることになるのです。
上田繁氏の略歴は、この橋渡しを鮮やかに裏付けてくれます。
上田繁略歴——『眼鏡橋往来』著者
明治32年(1899)10月1日——呉市本通九丁目にて生まれる(父・常太郎、母・ツタの次男)。
大正12年(1923)——五番町小学校・呉一中を経て早稲田大学商科卒業。
大正14年(1925)——呉商工会議所入所。
昭和12年(1937)——呉商工会議所理事に就任。
昭和19年(1944)——呉港運(株)入社。
昭和21年(1946)——呉市役所入所。呉市理事として交通部長・生活部長・審議室長・渉外局長を歴任。
昭和26年(1951)——呉市議会議員に当選(一期)。
昭和36年(1961)——郷土史『頼山陽の研究』により呉市芸術文化功労賞を受賞。
昭和43年(1968)——呉史談会を設立、会長に就任。
昭和48年(1973)12月31日——死去。享年74才。
この略歴には、二つの驚きがあります。
一つ目は生年月日。上田繁氏は1899年(明治32年)10月1日生まれ。これはただの誕生日ではありません。同じ「1899年」は、今しがた第5章で辿った ——渋沢栄一が支援した広島水力電気・広発電所が、黒瀬川沿いで「本邦に於ける遠距離送電の嚆矢」となる11kV高圧送電を始めた、まさにその年だったのです。
たまたまと言えばたまたま。しかし、渋沢栄一が呉という街に「電気」という近代を灯したその年に、後にその同じ人から「座右の銘」を揮毫されて呉の郷土史を書くことになる一人の赤ん坊が、同じ街の本通り九丁目に生まれていた——この一致は、古本屋として、少し息を呑まずには辿れないものがあります。
二つ目の驚きは、上田繁氏の職業と人脈です。早稲田大学商科を出て、そのまま呉商工会議所に入所し、昭和12年(1937)には理事に就任。つまり、戦前の呉の商業・経済界の中枢にいた人物だったんです。井上文造の時計屋も呉の商人ですから、上田氏とは面識があった可能性が高い。『眼鏡橋往来』の中で井上文造の時計屋が扱われているのは、そもそも著者の「交友録」の延長にある記述なのだと思うと、絵はがきと郷土史の重なりは一層実感を増します。
そして、渋沢栄一から贈られたという漢詩二句の意味も、ここで重いものになってきます。
渋沢栄一から上田繁へ贈られた漢詩——その意味
待有餘而済人 終無済人之日
待有暇而読書 必無読書之時
(訳)余裕ができてから人を助けようと思っていては、いつまでも人を助ける日は来ない。暇ができてから本を読もうと思っていては、必ず本を読む時は来ない。
「いつかやろう」ではなく、「今、やれ」——機を逃さず、思い立ったその時に行動すべきだという、渋沢栄一の生き方そのものが凝縮された二句です。追悼出版を手掛けたご子息・五球氏は「父は病床に臥してなお本を手離さず、最期まで読み続けた」と記しています。この漢詩の二句を、繁氏は生涯をかけて体現した方だったのでしょう。
この二句は、『眼鏡橋往来』という本そのものをも説明してしまいます。「いつかやろう」ではなく「今、中国新聞さんから誘われたときに誘いに乗り、戦前の呉の人脈をたどって『眼鏡橋往来』を連載した」——それはまさしく「暇を待たずに書いた」一冊だったのです。そして「父は美田を残す気はなかったけれど教養を身につける術を残してくれた」(五球氏のあとがきより)の一言も、この座右の銘と重なってきます。美田よりも読書と郷土への眼差しを遺した人——それが上田繁氏でした。
渋沢栄一が呉に遺した「二本の糸」
【物の糸】渋沢栄一 → 広島水力電気 → 黒瀬川の広発電所 → 1899年・日本初11kV送電 → 四ツ道路の電線 → 時計屋洋館のショーウィンドウを照らす
【言葉の糸】渋沢栄一 → 上田繁(1899年・本通り九丁目生まれ)に漢詩二句を揮毫 → 座右の銘 → 中国新聞連載『眼鏡橋往来』 → 1974年、息子・五球氏が追悼出版 → それがめぐりめぐりして、2026年・台風当日のアッシュ書店に先週買取された書籍の中に紛れて入り、店主の手に辿り着いた。
電気と言葉——同じ一人の人物が、二本の糸で明治の呉と現代のこの店を繋げていた。古本屋をやっていて、こういう一枚に出会うために、何十年も本を見続けているのかもしれません。
五球氏のあとがきには、他にもキャラクターを伝える一節があります。「父のあの毒舌と口の悪さ」という表現。郷土史家として、政治家として、商工会議所の人として、そして頼山陽研究者として多面的に生きた上田繁氏は、どうやら「眼鏡橋」のように誠実に両岸を架けるだけの人ではなく、時には言うべきことをはっきりと言い、ときには周囲に迷惑をかけることもあった、人間臭さのある人だったようです。それも含めて、人脈をたどりながら郷土史を書くということの重たさが伝わってくる記述です。
第7章:1909年、広島県内初の路面電車——呉市電が走った時代
そしてもう一つ、絵はがきの四ツ道路を読み解く鍵が、呉市電です。1909年(明治42年)12月、呉市街には広島県内で最初の路面電車が走り始めました。広島市内の広電(広島電気軌道)の開業が翌1912年(明治45年/大正元年)ですから、呉のほうが県内一番乗りだったのです。
呉市電は、本通り・四ツ道路を含む市内の主要動脈を走り、軍港・工廠への通勤、商店街への買い物、亀山神社への参拝など、戦前呉の暮らしの足となりました。第2章でも触れたとおり、市電はこの「四ツ道路」で曲がっていたといいます。電車が方向を変える角に、銀座スタイルの三階建てを誘致した——都市の動脈として、これ以上に三拍子揃った配置はないでしょう。電車が走り、電灯が点り、銀座スタイルの時計屋が時を刻む街——それが、絵はがきの中の呉でした。
戦災と戦後の都市計画の中で、呉市電は1967年(昭和42年)に全廃され、レールも軌道もすべて姿を消しました。眼鏡橋(旧海軍第一門前・別名境橋・明治21年竣工)は、昭和10年の青山クラブ改築に伴う敷地拡張・河川埋立とともに地中に埋設され、陸上からは見えなくなりました(この詳細は、本シリーズ第2回で改めて辿りたいと思います)。とにかく、絵はがきに写るすべてのもの——洋館、電車、商店街の佇まい——は、今はもうそこにはありません。だからこそ、こうした一枚の紙片に残された風景には、計り知れない価値があるのです。
第8章:「呉に銀座があった」——昭和の銀座デパートへ続く記憶
井上文造の時計屋洋館が「銀座スタイル」だったという郷土史の記録を読んで、もう一つ思い出したことがあります。呉には、昭和の戦後にも「銀座」を冠した名所がありました。銀座デパートです。
銀座デパートは1968年(昭和43年)に開店、本通りの2本西を平行に走る中通商店街(レンガ通り)の一番北側に建ち、2001年(平成13年)に閉店するまで、戦後の呉の中心商業を象徴する建物でした。屋上の遊園地で遊んだ記憶を持つ呉市民は、今でも少なくありません。ここに、戦前と戦後の商業軸の移動が見えてきます——戦前は本通り(四ツ道路)が市電も通る中心軸で、井上文造の時計屋洋館もそこにあった。それが戦後の高度成長期になると、銀座デパートを北の核とする中通商店街のほうが商業の中心となっていった。同じ呉の中心市街地でありながら、軸が一本西へずれた——これは戦災や戦後の都市計画、そして自動車交通の発達と無縁ではないでしょう。戦前の四ツ道路に「銀座スタイル」の時計屋洋館があり、戦後は中通商店街の北端に「銀座デパート」が建った——呉という街には、東京・銀座へのまなざしが、明治から平成まで百年以上にわたって、確かに通底していたのです。
これは単なる地方都市の「中央志向」とは少し違います。海軍とともに育ち、日本各地から人が集まり、近代日本の最前線を走り続けた呉という街が、その自負を「銀座」という言葉に託していた——そう考えると、絵はがき一枚から見えてくる風景は、もっと深く、もっと豊かなものになります。
呉に「銀座」があった——百年を超える系譜
明治後期——本通りの四ツ道路角に、井上文造の銀座・服部時計店スタイルの三階建て洋館。
1909年(明治42年)——県内初の呉市電(チンチン電車)が四ツ道路で曲がりながら走る。本通りが市電の通る中心軸。
1968年(昭和43年)——本通りの2本西・中通商店街(レンガ通り)の北端に銀座デパート開店、屋上遊園地が呉の子どもたちの聖地に。戦後高度成長期、商業の中心が中通商店街へと移っていく時代。
2001年(平成13年)——銀座デパート閉店。
戦前の本通り=銀座スタイルの洋館 → 戦後高度成長期の中通=銀座デパート。呉という街は軸を一本ずらしながら「銀座」を引き継いできたのです。
第9章:古本屋が辿る、三層の証言
本日、絵はがきと郷土史を突き合わせる作業をしながら、改めて感じたことがあります。それは、街の歴史というのは三層の証言で立ち上がるということです。
- 一次資料(物としての記録)——今回でいう絵はがきそのもの、戦前の地図、当時の建築写真。「ここに、確かにあった」という物的な証拠。
- 二次資料(編まれた記録)——『眼鏡橋往来』のような郷土史書、新聞記事、社史。誰かが意識的にまとめ、書物として残してくれた記録。
- 三次資料(人の記憶)——お客様やご近所の古老が、「うちのおじいさんがこう言っていた」と教えてくださる証言。文字には残らないが、街の空気を伝えてくれる声。
この三層が重なって、初めて「失われた呉」がうっすらと立ち上がってきます。古本屋という仕事は、図らずもこの三層のすべてに触れる立ち位置にあります。出張買取で訪れたお宅で出てきた絵はがき、買取で入荷する郷土史本、そしてお客様がふと漏らされる「主人の祖父がこの辺りで商売をしていた」といった一言——その一つひとつが、街の記憶のかけらなのです。
呉の郷土史については、当店もこれまでにいくつかの形で記事を書いてまいりました。呉の郷土史・民俗書の買取事例、標高737メートル・灰ヶ峰の自然夜景遺産と旧海軍高角砲台跡、艦艇写真集・RM LIBRARYなどお父様の蔵書の譲り受け——海軍と街、自然と街、書物と街、そのいくつもの結び目を、これからも丁寧に辿っていきたいと思います。
第10章:シリーズ「失われた呉を辿る」全5回の予告
今日の絵はがき一枚から立ち上がってきた風景は、とても一回の記事では書き尽くせないものでした。そこで、これを「失われた呉を辿る」と題したシリーズの第1回と位置づけ、今後数回に分けて、絵はがきから派生する戦前呉の風景を辿っていきたいと思います。
シリーズ「失われた呉を辿る」予定構成
第1回(本記事):絵はがき編——戦前の「四ツ道路」と井上文造の時計屋洋館・渋沢栄一の電気・呉市電
第2回:眼鏡橋往来編——海軍第一門前に架けられていた「眼鏡橋」(別名境橋・明治21年竣工)と、青山クラブ改築に伴う埋設、頭上の呉線高架との混同(『ブラタモリ』でも紹介された呉市民の「うっかり伝説」)の経緯
第3回:湯之崎・富貴亭編——失われた歓楽街、寄席富貴亭・板垣キヨ・藤間勘久治の世界
第4回:亀山神社編——南北軸の起点としての亀山神社、東西軸の祭りと暮らし
第5回:銀座デパート編——昭和の銀座、屋上遊園地、戦後呉の象徴(1968-2001)
※本シリーズは郷土史研究の確定的な記述ではなく、絵はがき・郷土史・古老の証言を重ねた古本屋からの読み解きです。識者の方からのご教示・ご訂正は大歓迎です。
まとめ:絵はがき一枚から始まる、街への問いかけ
本日2026年6月2日、台風当日の店にこもった一日。一枚の絵はがきから、明治後期の呉、新一万円札の顔・渋沢栄一の電気と漢詩、県内初の路面電車、銀座スタイルの時計屋洋館、そして昭和の銀座デパートまで——百年を超える呉の街の物語が立ち上がってきました。台風はこれから明日にかけてピークを迎えます。お読みいただいている皆様も、どうぞ安全にお過ごしください。
- 絵はがき「呉市本通リ四ツ道路」に写る三階建ての洋館は、郷土史『眼鏡橋往来』が記した井上文造の時計屋であった可能性が極めて高い。
- その洋館が銀座・服部時計店スタイルであったことは、明治後期の呉が日本有数の近代新興都市であったことの象徴です。
- 洋館を照らした電灯の背景には、新一万円札の顔・渋沢栄一が支援した広島水力電気と、呉市黒瀬川沿いの広発電所(日本初11kV高圧送電2例の片方/「本邦に於ける遠距離送電の嚆矢」)があった。
- その同じ渋沢栄一が、郷土史『眼鏡橋往来』著者・上田繁(1899年・呉市本通九丁目生まれ/呉商工会議所理事/呉史談会初代会長)に「待有餘而済人 終無済人之日/待有暇而読書 必無読書之時」の漢詩二句を揮毫し、それが上田氏の「座右の銘」となった——電気と言葉、二本の糸で渋沢は呉と繋がっていた。
- 1909年・県内初の呉市電(チンチン電車)が四ツ道路で曲がる街路に、銀座スタイルの時計屋があった——呉の都市的早熟さを物語る一場面。
- 戦前の本通り=銀座スタイルの時計屋から、戦後高度成長期の中通商店街=銀座デパートへ——呉は商業軸を一本西へずらしながら「銀座」を引き継ぎ続けた。
- 街の歴史は、一次資料・二次資料・人の記憶の三層が重なって、ようやく立ち上がる。古本屋はその結び目に立っている。
明後日か明々後日、台風が過ぎ去ったあとの青空のもとで、四ツ道路の交差点に立ったとしても、絵はがきの洋館はもうそこにはありません。けれども、紙の上に残された一枚と、書物に綴られた一行と、お客様がふと漏らされる一言を重ねていけば、失われた呉の風景は、確かにもう一度立ち上がってくる——古本屋として、それをお伝えしていくことが、私たちの仕事の一部だと改めて感じております。
当店では、こうした戦前絵はがき・古写真・古地図・郷土史書・記念誌・社史などの紙物・郷土資料も、誠実に査定・買取しております。「祖父の遺品から呉の古い写真が出てきた」「家を片付けていたら戦前の絵はがきが出てきた」「郷土史の本がたくさんある」——そんなときは、ぜひ一度0120-273-707までお電話ください。広島県全域・出張費無料、買取の難しいものも無料引取で対応いたします。創業20年・広島県古書籍商組合監査として、街の記憶を次の手へつなぐお手伝いをいたします。
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