この記事の概要

子どもの頃、家への近道は呉海軍墓地(現・長迫公園)を上って抜ける道でした。緩やかな坂道を駆け上がると、真正面の階段の上に塔のような「上海満州事変戦没者之碑」がそびえ立ち、その手前・左側に、薄暮の中でシルバーの檻がぼんやり白く浮かび上がっていたのを今でも覚えています。それが他のお墓と明らかに違って見えた、鉄の柵に閉じ込められた何か。そして時々、頭上から鳥が飛び立ちました。

大人になり古本屋として『失われた呉を辿る』シリーズを書き始めた頃、ふと気になって調べた——以前に買取したことのある呉海軍墓地誌『海ゆかば』は手元になく、店の近くの呉市立広図書館に先月足を運びました。そして第17ページ「英国水兵の墓」の項を開いたとき、あのシルバーの檻の正体が、ようやくわかったのです。眠っていたのは1907年(明治40年)4月13日、戦艦「安芸」進水式参列のため呉に回航中、宮島沖でH.M.S. ALACRITY(アラクリティー号)から海中に転落した、19歳の英国水兵——GEORGE TIBBINS(ジョージ・ティビンズ)。誕生日の2日前のことでした。本シリーズ「失われた呉を辿る」の番外編として、子どもの頃の風景と、一冊の墓地誌と、長迫公園の現地取材で辿った、百年を超える一基の墓の物語をお届けします。

こんにちは、呉市のアッシュ書店です。本シリーズ「失われた呉を辿る」は、店主の手元に偶然たどり着いた一枚の戦前絵はがきから始まり、第2回は眼鏡橋と青山クラブを辿ってきました。本編は「消えゆく呉の景観」を扱う郷土史コラムですが、今回は少し趣を変えて、「残された一基の墓」の話を書かせていただきます。番外編、として位置づけてみることにします。

主役は、呉海軍墓地(現・長迫公園)に静かに眠る、19歳の英国水兵。名前はGEORGE TIBBINS(ジョージ・ティビンズ)。1907年(明治40年)4月13日午後4時頃、戦艦「安芸」進水式参列のために呉港へ回航中、宮島沖で海中に転落して亡くなったイギリス人の若者です。誕生日の2日前でした。

そしてこの記事は、店主自身の子ども時代の記憶から始まります。実は店主の実家は、長迫公園からほど近い場所にあり、子どもの頃は墓地を「家への近道」として日常的に上り下りしていました。その日々の景色の中に、たった一基だけ、明らかに他と違うかたちのお墓が立っていたのです——薄暮の中でシルバーの檻がぼんやり白く浮かび上がる、不思議なお墓が。あれが何なのか、子どもの頃の私にはわかりませんでした。シリーズを書き始めて、ようやく、ずっと宿題のままだった四十年越しの問いに答え合わせをすることになります。

この記事でわかること
呉海軍墓地(長迫公園)のなかで、ひときわ異質な「鉄柵に囲まれた十字架の墓」に眠るGEORGE TIBBINSという英国水兵のこと
1907年(明治40年)4月13日、宮島沖でH.M.S. ALACRITY(アラクリティー号)から転落した19歳の事故の経緯
佐伯郡五日市沖での発見と、日本海軍礼式に準じて呉海軍墓地で執り行われた葬儀(1907年5月2日)
戦友たちの寄付による墓石建立(1907年5月25日)と、1965年11月21日の十字架修復(海上自衛隊呉地方総監部・呉グリーン・ライオンズクラブ)
・宮島・五日市・呉——アッシュ書店の対応エリア内で完結する三地名の物語
呉海軍墓地誌『海ゆかば』(公益財団法人 呉海軍墓地顕彰保存会・編)と、長迫公園内に静かに建つ顕彰保存会事務局のこと
・子どもの頃、家への近道に「シルバーの檻」を見上げていた店主の四十年越しの答え合わせ

第1章:シリーズに番外編を、と思った理由

失われた呉を辿る」というシリーズの第1回(四ツ道路の絵はがき編)と第2回(眼鏡橋・青山クラブ編)を書き終えたところで、ふと、もう一つだけ書かないといけないことがあるな、と気がつきました。「失われた」と題したシリーズの中に、「失われずに残った」呉のことを、一本どこかで挟まないといけない、と思ったのです。

呉という街は、明治・大正・昭和を通じて、軍港都市として日本中から人が集まり、そして1945年(昭和20年)の呉空襲をはじめとする戦災と、戦後の急速な都市改変を経て、本当にたくさんのものを失ってきました。本通りの井上文造の時計屋洋館も、海軍第一門前の眼鏡橋も、本物の姿は失われ、あるいは地中に埋もれて見えなくなっています。シリーズはそうした「もう見えないもの」を、紙片と書物と人の記憶の三層で立ち上げる試みです。

けれど、呉にはもう一つの顔があって、「失われずに、誰かの手で受け継がれているもの」もあるのです。第2回で扱った青山クラブは2027年度に解体予定ですが、その「印象的なR形状ファサード」のデザインは新複合施設の外観に継承される計画です——形を変えても、街は受け継ぐことができる。そしてその「受け継ぎ」の最も静かで、最も長い実例が、これからお話しする呉海軍墓地・長迫公園の英国水兵の墓です。

1907年(明治40年)に英国海軍の戦友たちが建てた一基の墓を、戦後の1965年(昭和40年)には日本側——海上自衛隊呉地方総監部と呉グリーン・ライオンズクラブ——の手で十字架が修復された。さらにその後も公益財団法人 呉海軍墓地顕彰保存会の方々の手で、長迫公園は丁寧に維持されてきました。一人の19歳の英国人の眠る場所を、百年以上にわたって日英の手が繋ぎ続けてきたのです。これは「失われた呉」ではなく「受け継がれた呉」の代表例です。シリーズに番外編としてどうしても一本書いておかないと、と思ったゆえんです。

第2章:子どもの頃の長迫公園——東公園と「シルバーの檻」

少し個人的なところから始めさせてください。本記事は、店主自身の子ども時代の景色から書き起こさないと、どうにも始められないのです。

店主の実家は、呉海軍墓地——現在の長迫公園——からほど近い場所にあります。子どもの頃の家への一番の近道は、ほかでもない、海軍墓地を上って抜ける道でした。下の入口から、緩やかな坂道——真ん中の大きな坂道——をひとつのぼっていけば、墓地の上に出る。そこからさらにもう一段のぼれば、もう家はすぐそこ。呉という街は、海と山に挟まれた急な斜面に作られた街なので、こうやって墓地を縦に貫いて家まで上っていく動線は、地元の子にはごく当たり前の日常風景でした。

普段の遊び場は、墓地のさらに上の東公園でした。これは地元の子だけが使う呼び名で、正式には長迫公園そのものの区画ではなく、長迫公園の北側、道路を一本隔てたところにある別の小さな公園です。長迫公園の北の縁に沿って細い道路が東西に走っていて、その道路をひとつ渡ったところに、開けた砂地の広場のような区画がある——あれが、地元の子たちが「東公園」と呼んでいた場所でした。長迫公園の中ではないけれど、すぐ隣。距離にして、墓地の北の縁から、ほんの数十歩のところ。「墓地のさらに上にある公園」と書きたくなる距離感だけれど、正確には「墓地の上の道路を渡った先にある公園」です。

そして、その長迫公園の北側——道路より公園側、つまり墓地の北縁にあたる区画には、子ども心にとても印象深い植物の景色が広がっていました。春には桜が満開になり、梅雨の頃には紫陽花が咲き、冬には立派な松の木から大きな松ぼっくりがたくさん落ちてくる——一年を通じて季節がはっきりと巡る、絵に描いたような景色でした。東公園で遊んだ帰り道、道路を渡って長迫公園の北縁を抜けて家へ向かうとき、いつもこの植物たちが目に入ってきた。横には防空壕の跡もあって、中に入ったことはありませんでしたが、入口の薄暗さは記憶にうっすらと残っています。

東公園の砂地の広場では、友達と軟球で野球をしていました。軟球は硬球と違って、ファールが飛んでも遠くまで転がっていきません。それに東公園と長迫公園の墓地区画との間には、道路があって、そのさらに公園側には植え込みや一段下の段差が挟まっていて、たとえ大きなファールを打っても、ボールが墓地までゴロゴロと転がり落ちてくるような距離感ではなかったのです。東公園の世界と、海軍墓地の世界は、道路一本を挟んでゆるやかに切り離されていたと言ってもいい。野球をする「北側」と、お墓のある「南側」は、子どもの中でもなんとなく別の空間として区別されていました。

でも、家に帰るときだけは別でした。

海軍墓地を上って抜ければ、家まで一直線。だから薄暗くなってきた夕方、急いで坂を駆け上がる。下の入口から、真ん中の坂道を一気にのぼっていきます。今のように綺麗に舗装されてはいない時代でしたから、足元の土の感触まで覚えています。

そして緩やかな坂のちょうど正面に、毎回、同じ景色が現れました——階段の上にそびえる、塔のように大きな碑。「上海満州事変戦没者之碑」と刻まれた、立派な石の碑です。子どもの目から見上げると、もう本当に塔としか言いようがありませんでした。下から見上げるあの構図は、いま大人になってから写真で見ても、確かに塔のように映ります。

そして、その手前——左側に。

シルバーの檻が、ぼんやりと白く浮かび上がっていました。

呉海軍墓地(長迫公園)に建つ、銀色の鉄柵ドームに守られた英国水兵GEORGE TIBBINSの墓。十字架の墓石を金属製の檻のような鉄柵が完全に覆っており、奥には深い緑の森が広がっている。
呉海軍墓地(長迫公園)に静かに建つ、英国水兵GEORGE TIBBINSの墓。十字架の石碑を、銀色の鉄柵ドームがすっぽりと包み込むように覆っている。子どもの頃の店主は、薄暮の坂道からこの鉄柵を「シルバーの檻」と感じていた。手前には参拝者によるピンク色の造花が一対供えられている。(2026年6月 取材時撮影)

それが何なのか、子どもの私にはわかりませんでした。お墓だということは、もちろん、わかります。でも他のお墓とは、明らかに違う。たくさん並ぶ和式の墓石——軍人さんたちの墓石が整然と並ぶ中で、そのお墓だけは、鉄の柵にすっぽりと閉じ込められていた。あるいは、守られていた。子どもにはそのどちらにも見えました。

そして時々、頭上で羽音がして、鳥が飛び立つことがありました。チャボのような、軍鶏のような、鶏のかたちをした大きな鳥。一度だけではなく、何度か遭遇しています。季節は覚えていません。覚えているのは、急に飛び立った羽音と、心臓が「とん」と跳ねる感覚、そして「肝試し気分」だった、ということ。

面白いのは、この場面で「お墓だからふざけたらいけん」と、親や近所の大人に言われた記憶が、まったくないことです。誰からも特に注意されないまま、子どもたちは墓地を通り道として自由に行き来していた。呉という街では、墓地は「日常の風景」に静かに組み込まれていたのです。だから、肝試し気分は誰かに与えられた感情ではなく、子どもが自分で感じ取った、純粋な感覚でした。

シルバーの檻、薄暮、鳥の羽音、急いで上る坂道。これらが、店主の幼少期の海軍墓地の景色です。当時は、その檻に閉じ込められた——あるいは守られた——のが誰なのか、知ろうとも思いませんでした。子どもは、わからないものを「わからないまま」抱えて生きていくのが、わりと得意なものです。

呉海軍墓地(長迫公園)の参道正面に建つ「上海満州事変戦没者之碑」。階段の上に塔のようにそびえる石碑で、子どもの頃の店主が下から見上げると塔のように映った。
長迫公園の中央の坂道を上がっていった正面、階段の上にそびえる「上海満州事変戦没者之碑」。子どもの目から見上げると塔のように大きく映った。この碑の手前・左側に、シルバーの檻——GEORGE TIBBINSの墓が建っている。(2026年6月 取材時撮影)
長迫公園内、TIBBINSの墓と背後の慰霊碑群の位置関係。中央奥にシルバーのドーム状鉄柵に囲まれた英国水兵の墓が見え、その左隣の階段の上には大きな石碑(第十五駆逐隊慰霊碑)がそびえる。
TIBBINSの墓(中央奥・シルバーのドーム鉄柵)と周辺慰霊碑群の位置関係。中央奥に英国水兵の墓、その左に階段を上ったところの大きな石碑、手前は通路と緑豊かな植え込み。日本海軍の戦没者慰霊碑群の中に、一基だけ英国式の十字架の墓が立つ、この稀有な空間の構造がよくわかる引きのアングル。(2026年6月 取材時撮影)

第3章:古本屋として、『海ゆかば』に再会する

大人になり、古本屋を二十年やってきて、本当にたくさんの郷土史本を扱ってきました。呉海軍墓地誌『海ゆかば』——これは、その中でも特別な一冊です。発行は公益財団法人 呉海軍墓地顕彰保存会。呉という街の歴史を綴る本の中でも、海軍墓地に眠るお一人おひとりに焦点を当てた、極めて誠実で深い記録の本です。当店でも、過去に一度買取をさせていただいた記憶があります——蔵書整理をされたお客様のお宅で、出てきた一冊。

ところが、本シリーズ「失われた呉を辿る」を書き始めて、第3回・番外編を構想する段になって、いざ手に取ろうとしたら——店の在庫にないのです。買取しても、すぐにご縁のある方に渡っていきます。古本屋というのはそういう仕事です。手元に置いておきたい本ほど、求める方のところへ早く旅立っていくのが常で、しかし郷土史本の中でも『海ゆかば』はとくに、必要としている方のもとに静かに渡っていく類の一冊だな、と改めて感じます。

先月、店から車で十分ほどの呉市立広図書館へ足を運びました。広地区——呉市の東側、戦前に「広発電所」のあった場所です。本シリーズ第1回で、新一万円札の顔・渋沢栄一が支援した広島水力電気の発電所が、ほかでもないこの「広」に建てられ、1899年(明治32年)に日本初の11kV高圧送電2例の片方を担ったというお話をいたしました。第1回で「広」を辿った同じ地名の図書館で、今回は『海ゆかば』を辿ることになるとは、シリーズを書き始めたときには想像していませんでした。地名は、こうやって自分の中で勝手に繋がっていくものです。

郷土資料コーナーで『海ゆかば』を手に取り、目次を辿って、第17ページ「英国水兵の墓」を開きました。読みはじめて、息を呑みました。書かれていたのは、あのシルバーの檻に眠るのが、1907年に宮島沖で消えた19歳の英国水兵であるということ。誕生日の2日前に亡くなったということ。約3週間後、五日市沖で発見されて、呉海軍墓地に葬られたこと——子どもの頃、薄暮の坂道で見上げていた「シルバーの檻」の中には、こんな物語が静かに眠っていたのです。

呉海軍墓地誌『海ゆかば』第17ページ「英国水兵の墓」の項。GEORGE TIBBINSの経歴、宮島沖での事故、呉海軍墓地での葬儀、戦友たちによる墓石建立、戦後の十字架修復まで詳細に記された一次資料。
呉海軍墓地誌『海ゆかば』第17ページ「英国水兵の墓」の項。本記事で引用するTIBBINSの経歴・事故の経緯・葬儀・墓石建立・戦後の十字架修復までの記述は、すべてこの一次資料に基づく。出典:呉海軍墓地誌『海ゆかば』p.17(公益財団法人 呉海軍墓地顕彰保存会・編/呉市立広図書館蔵)。

一次資料:呉海軍墓地誌『海ゆかば』第17ページ「英国水兵の墓」より

本記事におけるGEORGE TIBBINSの経歴、事故の日付・場所、葬儀の経緯、墓石建立、戦後の十字架修復に関する事実関係は、すべて呉海軍墓地誌『海ゆかば』第17ページ「英国水兵の墓」の項に依拠しています。

発行:公益財団法人 呉海軍墓地顕彰保存会(所在地:広島県呉市上長迫町7-25/長迫公園内)。
頒布:同会公式ウェブサイトの「諸代金・料金表」(令和6年2月1日現在)によれば、持帰り2,500円・送料込3,000円で頒布の案内あり。事務局は平日13:00〜16:00の開所。現在の頒布状況は事前に電話・FAX(0823-25-1362)等でご確認ください。

本記事における引用・記述に万一誤りがあれば、すべての責任は筆者(アッシュ書店)に帰します。識者の方からのご教示・ご訂正は大歓迎です。

第4章:1907年4月13日、宮島沖で何が起きたか

『海ゆかば』第17ページが伝えるところによると、事故の経緯はこうです。

1907年(明治40年)2月10日、19歳の英国海軍2等水兵GEORGE TIBBINSは、H.M.S. ALACRITY(アラクリティー号)の乗組員となります。H.M.S.は「His/Her Majesty's Ship」——「陛下の艦」、つまりイギリス王立海軍の艦艇に冠せられる接頭辞です。アラクリティーは、当時の香港駐在 英国中国駐屯軍 司令長官 アーサー・ウィリアム・ムーア海軍中将が乗艦していた艦でした。TIBBINSの原所属艦はH.M.S. KING ALFRED(キング・アルフレッド号)で、墓石の碑文にもこちらの艦名が刻まれています。

1907年4月、アラクリティーは戦艦「安芸」の進水式参列のため呉へ回航することになります。戦艦「安芸」は日本海軍が満を持して建造した大型戦艦で、その進水式は1907年4月15日に予定されていました。日英同盟(1902年締結)下にあった当時、英国海軍の艦艇が日本の軍港・呉を友好的に訪問することは珍しいことではなく、進水式への参列は、両海軍の友好の象徴でもあったのです。

そして4月13日午後4時頃。瀬戸内海を呉に向けて航行中のアラクリティーは、宮島沖に差し掛かっていました。安芸の進水式まで、あと2日。そしてTIBBINSの19歳の誕生日まで、あと2日。船上での何があったのかは、墓地誌の記述からは具体的にはわかりません。記されているのは、ただ「海中に転落し、捜索されたが発見できず」という事実だけです。

ここで少し、地理を補足させてください。「宮島沖」と聞くと、つい厳島神社の海上鳥居が見える海を思い浮かべてしまいますが、厳島神社と海上鳥居は宮島の北東側——本州(廿日市)寄りの大野瀬戸に面した側にあります。一方、大型の英国軍艦アラクリティーが呉に向けて航行していたのは、宮島の反対側、外洋寄りの広い海域——能美島・江田島との間に広がる、水深のある航路の方だったはずです。宮島の中央には標高535mの弥山(みせん)がそびえていますから、艦上から鳥居の方角は、島影に遮られて見えなかったでしょう。それでも当時の英国水兵たちは、デッキから右舷に迫る宮島の山並みを眺めながら、ここが日本人にとって特別な聖地に近い海であることを、何かしら感じ取っていたかもしれません。瀬戸内のこのあたりは、無数の島が複雑に入り組み、潮の流れも一筋縄ではいかない海です。19歳の青年は、誕生日の2日前に、故郷から何千キロも離れた異国の海に消えました。1907年4月15日、本来の目的であった戦艦「安芸」の進水式は、予定通り執り行われました。TIBBINSの行方は、その時点では、まだ分かっていません。

1907年——香港から呉まで、19歳の青年が辿った道のり

TIBBINSがH.M.S. ALACRITYに乗って香港を発ってから、呉海軍墓地に眠るまでの、約3か月の航跡を地名で辿ると次のようになります。

香港(1907年2月10日 H.M.S. ALACRITY乗艦)

呉へ向けて回航(戦艦「安芸」進水式参列のため)

宮島沖(1907年4月13日午後4時頃 呉港到着前に海中に転落)……廿日市市

佐伯郡五日市沖(1907年5月2日朝 遺体発見)……現在の広島市佐伯区

呉海軍墓地(長迫公園)(1907年5月2日午後 葬儀・現在も眠る)……呉市

TIBBINSは、生前ついに呉の地を踏むことはありませんでした。呉港に向かう航行の途中、宮島沖で海に消え、3週間後に五日市沖で見つかり、その日のうちに呉海軍墓地に運ばれて葬られた——。宮島・五日市・呉、広島県西部の三つの地名が、生きて辿り着けなかった19歳の英国人を、一本の線で呉まで繋いでいる。海と陸が、百年前の一人の青年を、今もここに留め置いているのです。

第5章:5月2日、五日市沖での発見と、呉海軍墓地での葬儀

事故から約3週間後の1907年5月2日朝、TIBBINSの遺体は佐伯郡五日市沖——現在の広島市佐伯区にあたる海域——で発見されました。宮島から五日市までは、瀬戸内海の流れに沿って東へ少し、距離にして約10キロほど。3週間という時間と、瀬戸内海の潮の流れが、19歳の青年を、もとの呉港にゆっくりと近づける方向へと運んでいたのかもしれません。

『海ゆかば』第17ページが特に重く語るのは、同日午後の出来事です。発見されたその日のうちに、TIBBINSは呉海軍墓地に運ばれ、葬儀が執り行われました。それも、多数の高級将校が臨席のもと、日本海軍礼式に準じて。これがどれほど特別なことか、軍隊の式典のことを少しでも知っている方なら、すぐにお分かりいただけると思います。

1907年といえば、日露戦争(1904-1905)の勝利から2年。日英同盟下にあり、日本海軍は当時の英国海軍を最も尊敬し、学んでいた時代です。友好国の艦の若い水兵が、自国の艦の責任ではなく海難事故で命を落とした。それを日本側が、自国の戦没者と同じ礼式で——日本海軍の格式と敬意をもって——葬った。これは外交儀礼であると同時に、「海の上で起きたことに、海の人として応える」という、海軍同士の極めて純粋な気持ちの表れだったように思います。

そして1907年5月24日、H.M.S. ALACRITY(アラクリティー号)はふたたび呉港を訪問します。仲間を弔うために、戦友たちが戻ってきたのです。翌5月25日、TIBBINSの乗組員仲間たちの寄付によって、呉海軍墓地に墓石が建立されました。これが、いま長迫公園に立つあの「シルバーの檻」の十字架の墓の、はじまりです。

第6章:碑文を読む——SACRED TO THE MEMORY OF

墓石の碑文は英文で刻まれています。簡素ですが、海軍式の格式を備えた、美しい文章です。

GEORGE TIBBINS 墓石碑文(英文/和訳)

SACRED
TO THE MEMORY OF
GEORGE TIBBINS
AGED [19]
SEAMAN OF H.M.S. KING ALFRED
DROWNED OFF MIYAJIMA
13TH APRIL 1907
WHILST SERVING IN H.M.S. ALACRITY
THIS STONE WAS ERECTED BY HIS SHIP MATES

——
神聖なる
ジョージ・ティビンズの記憶に捧ぐ
享年19歳
王立軍艦 キング・アルフレッド号 水兵
1907年4月13日 宮島沖にて溺死
王立軍艦 アラクリティー号 任務遂行中
この墓石は彼の戦友たちにより建立された

とくに胸に迫るのは、最後の一行——THIS STONE WAS ERECTED BY HIS SHIP MATES(この墓石は彼の戦友たちにより建立された)。国も、組織も、儀礼も飛び越えて、最後に名前が刻まれているのは、「HIS SHIP MATES」——彼の艦の仲間たち、です。同じ船の上で、同じ釜の飯を食べ、同じ任務を負っていた仲間たちが、お金を出し合って、異国の港にひとつの墓を遺した。本国に連れて帰ることもできなかった19歳の戦友のために、せめてここに、ちゃんと墓を、と。

そしてDROWNED OFF MIYAJIMA——宮島沖にて溺死。地名がきっぱりと刻まれていることが、いま改めて重く感じます。MIYAJIMA。日本人にとっては世界遺産・厳島神社の海ですが、ある一人の英国人にとっては、人生が終わった海の名前でもあるのです。

第7章:1965年11月21日——戦後、折れていた十字架の修復

『海ゆかば』第17ページは、TIBBINSの物語をここで終わらせていません。1965年(昭和40年)11月21日、もう一つの重要な出来事が記されています。

戦後、折れていた十字架。1907年に建てられた墓石の十字架は、戦中・戦後の混乱の中で、いつしか折損していました。それを修復したのは、海上自衛隊呉地方総監部と、呉グリーン・ライオンズクラブ。日付は1965年11月21日。建立から実に58年後、戦後20年の節目の年でした。

これは静かな、しかし深い意味を持つ出来事です。明治40年(1907年)に英国海軍の戦友たちが建てた十字架を、昭和40年(1965年)に日本側の手——海上自衛隊と地元の奉仕団体——が修復した。第二次世界大戦を挟んで、英国と日本は一度は戦った関係です。それでもなお、一基の十字架の墓は、敵対の記憶よりも先に、「海の上で起きたことに、海の人として応える」という1907年5月2日の葬儀の精神を、戦後にもう一度蘇らせる対象となったのです。

そして、この修復から、さらに60年が経った2026年の今もなお、十字架と鉄柵ドームは静かに長迫公園に立ち続けています。維持しておられるのは、現在の公益財団法人 呉海軍墓地顕彰保存会の方々——後の章でも触れますが、長迫公園の一角に小さな赤レンガの事務局を構え、ボランティアとして墓地全体の顕彰を続けておられる団体です。建立した英国海軍の戦友たち、修復した戦後日本の自衛隊と奉仕団体、そして今も維持を続ける顕彰保存会の方々——三世代にわたる手が、一基の墓を繋いできました。

補記:観光庁多言語解説文データベースの記述について

ここで一つ、誠実に書き添えておかなければならないことがあります。本記事を書く過程で、観光庁の多言語解説文データベースに長迫公園の公式解説が掲載されていることを知り、目を通しました。そこには次のような記述があります——「第二次世界大戦終了後、呉市が連合国からの爆撃に耐えた報復として、一部の市民がティビンズの墓石を破壊した。しかし、大多数の呉市民はこの行為を不当だと感じ、資金を集めて碑を再建し、将来の荒らしから守るために金属製の囲いで囲った」

ただし、当事者団体である呉海軍墓地顕彰保存会が編んだ一次資料『海ゆかば』第17ページには、この破壊と市民再建のエピソードについての記述はありません。『海ゆかば』が伝えるのは、本章で書いた1965年(昭和40年)の海上自衛隊呉地方総監部・呉グリーン・ライオンズクラブによる十字架修復のみです。

観光庁版に書かれた「資金を集めて再建」が、本章で記した1965年のライオンズクラブによる修復を「市民の活動」として要約したものなのか、それとも『海ゆかば』に書かれていない戦後直後の別の出来事を伝えているのか——いまの店主には判断する材料がありません。「鉄柵ドーム=シルバーの檻」がいつ設置されたものなのかも、『海ゆかば』には明記がなく、観光庁版を信じれば「戦後の市民再建時」ということになりますが、これも断定はできません。

いずれにせよ確かなのは、1907年の建立から2026年の今日まで、英国戦友・戦後日本の手・呉の市民・自衛隊・奉仕団体・顕彰保存会——時代ごとに、誰かの手がこの墓に関わり続けてきたということです。今後、別の郷土資料や地元の方の証言でこの点を確認できたら、改めて本稿に追記したいと思います。

出典:観光庁 多言語解説文データベース「Nagasako Park (Imperial Navy Cemetery)」(管理番号 R2-01775/呉市多言語解説協議会作成・令和2年度/https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/en/R2-01775.html

ツツジの植え込み越しに斜めから見たGEORGE TIBBINSの墓。手前の鮮やかなツツジと、墓石の足元に供えられた一対のピンク色の造花、奥には銀色の鉄柵ドームが情緒豊かな構図で写る。
ツツジの植え込み越しに見る、英国水兵の墓。墓石の足元には誰かが供えた一対のピンク色の造花がある——百年以上を経ても、絶えることなく誰かがここに手向けを続けている。建立した英国海軍の戦友たち、戦後の自衛隊と奉仕団体、そして今も維持を続ける顕彰保存会の方々、三世代にわたって繋がれた手の、ひとつの結果としての一対の花。(2026年6月 取材時撮影)

第8章:日本遺産「鎮守府 呉」の中の英国水兵

では、現在のTIBBINSの墓は、どのような環境に立っているのか——一基の墓を取り囲む、もう一つ大きな枠組みについても、書いておかねばなりません。

呉海軍墓地は、明治・大正・昭和を通じて、呉鎮守府ゆかりの戦没者を弔ってきた、日本でも有数の海軍墓地です。明治23年(1890年)の呉鎮守府開庁とほぼ時を同じくして整えられ、戦艦「大和」をはじめ、無数の艦艇の戦没者・殉職者の慰霊碑がここに建てられました。広場には戦艦大和戦死者之碑、第十五駆逐隊慰霊碑、上海満州事変戦没者之碑など、日本海軍の歴史を凝縮した慰霊空間が広がっています。

呉海軍墓地(長迫公園)内に建つ「戦艦大和戦死者之碑」。戦艦大和の沈没で命を落とした乗組員たちを弔う大きな石碑。
長迫公園に建つ「戦艦大和戦死者之碑」。1945年(昭和20年)4月7日、坊ノ岬沖海戦で沈没した戦艦大和の乗組員を弔う。TIBBINSの墓と同じ公園の中に、日本海軍の歴史を象徴する慰霊碑がいくつも建っている。(2026年6月 取材時撮影)

そして2016年(平成28年)、呉鎮守府は、横須賀・佐世保・舞鶴の三鎮守府とともに、日本遺産「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴 〜日本近代化の躍動を体感できるまち〜」に認定されました。長迫公園・呉海軍墓地も、この日本遺産を構成する重要な文化財群のひとつです。

長迫公園内に設置された日本遺産「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴」の案内板。明治期の海軍鎮守府都市群の歴史と文化財を紹介している。
長迫公園内に設置されている日本遺産「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴」の案内板。明治日本の近代化を支えた4つの海軍鎮守府都市群が、ストーリー型文化財として一括認定されている。(2026年6月 取材時撮影)

この大きな日本海軍の慰霊空間のなかに、たった一基だけ、明らかに違う形の墓が立っているわけです。英国式の十字架と、ドーム状の鉄柵。日本海軍の中で、英国海軍の流儀のままに眠っている水兵。これがどれほど特別な光景か、現地で改めて感じました。日本遺産という大きな枠組みの中で、もっとも国際的な、もっとも「海でつながった世界の物語」を体現しているのが、ほかでもないGEORGE TIBBINSの墓なのです。

長迫公園内に設置された「呉海軍墓地の沿革」プレート。明治期の墓地創設から現在までの経緯が記されている。
「呉海軍墓地の沿革」プレート。明治期の墓地創設の経緯から、戦中・戦後を経て現在の長迫公園として整備されるまでの歴史が刻まれている。墓地誌『海ゆかば』とあわせて、現地で読み解きたい一次資料。(2026年6月 取材時撮影)

第9章:『海ゆかば』を編んだ場所——長迫公園の事務局

もう一つ、現地でぜひ書いておきたいことがあります。長迫公園の一角に、ひっそりと建つ赤レンガと瓦屋根の和洋折衷建築があります。一見すると、明治・大正期のささやかな官舎のような佇まいの、小さな建物。これが、本記事で何度も引用している『呉海軍墓地誌「海ゆかば」』を発行している、公益財団法人 呉海軍墓地顕彰保存会の事務局です。

長迫公園内に建つ公益財団法人 呉海軍墓地顕彰保存会の事務局。赤レンガと和瓦の屋根を持つ和洋折衷の小さな建築で、入口には「艦船写真画像展示」「殉難追悼の記録写真展」などの幟が立てられている。
公益財団法人 呉海軍墓地顕彰保存会の事務局。長迫公園の一角に建つ、赤レンガと和瓦の屋根を持つ和洋折衷の小さな建築。本記事で引用している『呉海軍墓地誌「海ゆかば」』は、ほかでもないこの建物の中で、戦後の呉の方々の手によって編まれ続けてきた一冊である。所在地:呉市上長迫町7-25/開所:平日13:00〜16:00/電話・FAX:0823-25-1362。(2026年6月 取材時撮影)

住所は呉市上長迫町7-25。電話・FAXは0823-25-1362。開所時間は平日13:00〜16:00。公式ウェブサイトの「諸代金・料金表」(令和6年2月1日現在)によれば、頒布物として『海ゆかば』が2,500円(持帰り)・3,000円(送料込)、合同追悼式DVDが1,300円(持帰り)・1,500円(送料込)、呉海軍墓地しおり(有料版)が100円(持帰り)・250円(送料込)、艦船沈没位置図が100円(持帰り)・250円(送料込)と案内されています。現地の事務局や通販で頒布されているのは、嬉しいことです。

取材当日(2026年6月)、店主が事務局の前を通り過ぎたとき、中に人の姿がありました。中には入らせていただきませんでしたが、平日昼間、長迫公園の一角で、誰かがコツコツと記録と継承の仕事を続けておられる気配がありました。本記事をご覧になって『海ゆかば』を入手したいとお考えの方は、事前に電話やメールで頒布状況をご確認の上、お訪ねください——いま頒布されているか、在庫がどうか、私は確認できていないので、その点はぜひご注意ください。

そして、今回もうひとつ、現地に立ってはっきりと感じたことがあります。長迫公園は、子どもの頃の面影もないほど、きれいに整えられていました。坂道の途中には、熊手・ほうき・塵取りなどの清掃道具がきちんと並べて置かれていて、いつでも誰かが手入れに入れるようになっている。坂道にも、墓石の周りにも、塵のひとつ、乱れたところがひとつも見当たらないくらい、すみずみまで清掃が行き届いていました。これは、顕彰保存会の方々や、地域の手によって、毎日のように地道に維持されているからこそ、です。一基の墓が百年以上前のままの姿でそこに在り続けるためには、こうやって、誰かが、毎日、ほうきを手にする必要がある——それを実感した取材でした。

古本屋として、ここで少し感慨を書かせていただきます。店主が子どもの頃、墓地を縦に駆け抜けて家に帰っていた数百回の道のりの途中——当時は、いまの赤レンガの事務局はまだなかったはずです。記憶をたどっても、あの建物がそこに建っていた覚えはありません。それでも、いま事務局が建っている、まさにこの一角を、子どもの私は何百回となく通り過ぎていた。当時の私は、いつかこの場所で『呉海軍墓地誌』が編まれることになるとは、もちろん想像もしていませんでした。そしてさらに大人になり、古本屋を始め、その本を一度買取し、一度手放し、そしてその本のp.17を、店から少し離れた呉市立広図書館で、改めて開くことになる——子どもの足が通り過ぎていた一角と、店主の本棚と、図書館の郷土資料コーナーが、一冊の本を介してあとから繋がっていた。古本屋を続けていると、こういう「気づくのに四十年かかる繋がり」に、ときどき呆然とさせられます。

そして、もうひとつ。本記事を書くにあたって、観光庁の多言語解説文データベースに、長迫公園の公式解説が掲載されていることを知りました。そこを読んでいて、ひとつ大切なことに気づいたのです。長迫公園の墓石には、いま、長迫小学校の生徒たちが定期的に花を手向けに来ているそうです。ティビンズの碑も、その手向けの対象のひとつ。英国水兵の墓だからといって特別扱いされているわけではなく、長迫公園に眠るすべての方々と等しく、子どもたちの花が供えられている——この「等しく」が、店主にはとても大事に感じられます。

実は、店主自身も長迫小学校の卒業生です。けれども、店主が小学校に通っていた当時は、こういう活動はありませんでした。墓地は子どもにとって「家への近道」であり「肝試し気分の薄暮の坂道」であって、お花を持って意識的に訪ねる場所では、まだ無かったのです。先生から「墓地に花を手向けに行きましょう」と言われた記憶も、ありません。だから、この観光庁解説文の一文を読んだとき、店主は息を呑みました

四十年前、自分が「シルバーの檻」を肝試し気分で見上げていた、まさにあの長迫公園に、いまは自分の母校の後輩たちが、お花を持って、敬意とともに訪れている。ティビンズの墓も、その他の和式の墓石も、変わらず一基ずつ、子どもたちの花が手向けられている。「日常の通り道」だった墓地が、「ちゃんと花を手向ける場所」へと、地域の意識の方が、四十年かけて静かに育っていたのです。

これこそが、「失われた呉」と「受け継がれた呉」の本当の意味なのかもしれません。失われたものは、子どもが墓地を通り道として駆け抜けていた、土の坂道の手触りや、薄暮の肝試し気分。受け継がれたものは、英国戦友の手から始まって、戦後の自衛隊、顕彰保存会の方々、そして長迫小学校の後輩たち——百年以上の時間をかけて、丁寧に積み重ねられてきた、敬意の所作です。さらに毎年秋分の日には、呉海軍墓地顕彰保存会と呉市が合同で戦没者の慰霊祭を行っているとのこと。店主が子どもの頃に通っていた道のすぐ近くで、いま、別の世代の子どもたちが、ティビンズの墓を含む長迫公園の一基一基に、花を置いている。それを思うと、もう、何も書き足すことができません。

出典:観光庁 多言語解説文データベース

本節の「長迫小学校の生徒たちによる花の手向け」「秋分の日の合同慰霊祭」の記述は、観光庁 多言語解説文データベース「Nagasako Park (Imperial Navy Cemetery)」(管理番号 R2-01775/呉市多言語解説協議会作成・令和2年度/https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/en/R2-01775.html)に基づきます。同データベースは国土交通省 観光庁が運営する公式情報源で、全国の観光地について日英中韓四か国語の解説文を提供しています。

第10章:現地ガイド——長迫公園へのアクセスと巡り方

ここまで、TIBBINSの物語と店主の記憶を辿ってまいりましたが、本記事をきっかけに「実際に行ってみたい」と思ってくださる方のために、現地ガイドの要点も書いておきたいと思います。

所在地は広島県呉市上長迫町。呉駅から車で約10分、JR呉線・呉駅から徒歩でも30分ほど。公園の斜め前長迫公園利用者駐車場があり、約11台駐車できます。開場時間は9:00〜17:00。公園そのものは日中常時開放されていますので、お墓参りや散策は自由にできますが、車の方は駐車場の開場時間にご注意ください。

長迫公園入口に設置された案内サイン。日本語「長迫公園」と英語「Nagasako Park (Old Imperial Naval Cemetery)」が併記されており、旧呉海軍墓地であることが明示されている。
長迫公園入口の案内サイン。「長迫公園 / Nagasako Park (Old Imperial Naval Cemetery)」と日英併記。「旧帝国海軍墓地」であることが明示されており、海外からの来訪者にも開かれた場所となっている。(2026年6月 取材時撮影)

園内に入ると、まず呉海軍墓地の案内図が掲示されています。墓地は広く、慰霊碑も多いので、初めて訪れる方は、まずこの案内図でだいたいの場所を把握されるのがおすすめです。GEORGE TIBBINSの墓は、案内図でいうと「英国水兵の墓」と記載されており、上海満州事変戦没者之碑の手前左に位置しています。

長迫公園(呉海軍墓地)内の案内図。手書きで墓地全体の墓・慰霊碑の配置が描かれており、各艦艇・部隊ごとの慰霊碑の位置がわかる。
園内に掲示されている呉海軍墓地の案内図。各艦艇・部隊ごとの慰霊碑の位置が手書きで詳細に記されている。「英国水兵の墓」の位置もこの図で確認できる。(2026年6月 取材時撮影)
長迫公園内の参道。整備された遊歩道が緑の中を抜けていく。
長迫公園の中央の坂道。現在は綺麗に舗装されているが、店主が子どもの頃はもっと土の色が濃い坂道だった。下の入口から、真ん中の坂道を上がっていくと、正面の階段の上に上海満州事変戦没者之碑が見えてくる。(2026年6月 取材時撮影)

静かにお参りされる方も多いので、大きな声でのおしゃべりや、お墓へのむやみな立ち入りは、控えていただければと思います。とくに鉄柵に囲まれたTIBBINSの墓は、写真撮影は鉄柵の外からなら問題ありませんが、鉄柵に手をかけたり、寄りかかったりは厳禁です。一基の墓が百年以上をかけて守られてきたのは、こうした最低限のマナーが、訪れる方一人ひとりに守られてきたからだ、と思います。

長迫公園(呉海軍墓地)参拝ガイド

所在地:広島県呉市上長迫町
駐車場:長迫公園利用者駐車場(園の斜め前・約11台/9:00〜17:00)
アクセス:JR呉駅から車で約10分、徒歩約30分
公園:日中開放(無料・自由参拝)
顕彰保存会事務局:呉市上長迫町7-25/電話・FAX 0823-25-1362/平日13:00〜16:00
日本遺産:「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴」構成文化財

※静かな墓地ですので、参拝・撮影の際は他の参拝者や遺族の方への配慮をお願いします。

第11章:エピローグ——四十年越しの答え合わせ

取材当日、店主は園内を一周してから、改めてあのシルバーの檻の前に戻ってきました。子どもの頃、薄暮の坂道で見上げていた、不思議なお墓。鉄柵ドームの十字架。誕生日の2日前に宮島沖に消えた、19歳の英国の青年——GEORGE TIBBINS。

檻の中の十字架は、子どもの頃と同じところに、変わらずに立っていました。1907年に英国海軍の戦友たちが建てた最初の十字架は、いったん戦中・戦後の時間の中で折損し、1965年に日本側の手で修復され、その後さらに60年。失われずに、ここに残り続けている。手前の花立てには、誰かが供えたピンク色の造花が、一対ありました。誰が供えたのかはわかりません。けれど、毎日のように手向けが絶えないこの場所は、もう「英国水兵」というカテゴリーを超えて、長迫公園に静かに馴染んでいる気がしました。

子どもの頃、薄暮の坂道で「シルバーの檻」を見上げながら、何が怖かったのか、いまの私にはようやくわかります。怖かったのは、檻の中にいる「誰か」が、どんな人だったのか、わからなかったことです。わからないものは、子どもにとっては怖いままで仕方ない。けれど、四十年あまりが経って、店主は古本屋として一冊の墓地誌に出会い、図書館で第17ページを開き、現地に立って、ようやく檻の中の「誰か」に名前と物語があったことを知った。怖さは、知ることで、悲しさと敬いに変わります

そして、いま長迫公園を歩いていると、頭上で羽音はしません。子どもの頃に飛び立った鳥は、もういません。あれはチャボだったのか、軍鶏だったのか、それとも誰かが飼っていた鶏が逃げ出していたのか、その正体は、今もって分かりません。墓の正体は分かったけれど、鳥の正体は分からないままです。それでいいのだ、と思っています。子どもの記憶は、すべてが解明されてしまわなくていい。むしろ、すべてがわかってしまうほうが、街への問いかけは終わってしまいます。

本シリーズ「失われた呉を辿る」は、これからも続きます。本編は湯之崎・富貴亭編亀山神社編銀座デパート編を予定しています。番外編も、もし長迫公園の他の慰霊碑や、あるいは呉のどこかで、ふたたび店主が「子どもの頃にわからなかったこと」に出会ったら、その都度書かせていただきます。古本屋が、一冊の本と、一枚の写真と、一基の墓を介して、自分の住む街に問いかけ続ける——それを「失われた呉を辿る」というシリーズ名のもとで、これからも続けてまいります。

まとめ:受け継がれた呉の代表として

  • 呉海軍墓地(長迫公園)の鉄柵に囲まれた十字架の墓には、1907年4月13日、宮島沖でH.M.S. ALACRITY(アラクリティー号)から海中に転落した19歳の英国水兵 GEORGE TIBBINSが眠る。誕生日の2日前のことだった。
  • 事故から約3週間後の5月2日朝、佐伯郡五日市沖で遺体発見。同日午後、多数の高級将校臨席のもと、日本海軍礼式に準じて呉海軍墓地で葬儀が執り行われた(日英同盟下、1907年)。
  • 5月24日、H.M.S. ALACRITYが呉港を再訪問。翌5月25日、乗組員仲間の寄付により墓石建立——碑文の最終行「THIS STONE WAS ERECTED BY HIS SHIP MATES」に、戦友たちの祈りが刻まれている。
  • 1965年(昭和40年)11月21日、戦後折れていた十字架を海上自衛隊呉地方総監部・呉グリーン・ライオンズクラブが修復。建立から58年、戦後20年の節目。
  • 事実関係の出典:呉海軍墓地誌『海ゆかば』第17ページ「英国水兵の墓」(公益財団法人 呉海軍墓地顕彰保存会・編/呉市立広図書館蔵)。
  • 長迫公園は日本遺産「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴」の構成文化財。一基の英国式十字架の墓は、もっとも国際的な、もっとも「海でつながった世界の物語」を体現している。
  • 建立した英国海軍の戦友たち、戦後の自衛隊と奉仕団体、そして現在も維持を続ける顕彰保存会の方々——三世代にわたる日英の手が、一基の墓を百年以上にわたって繋いできた。「失われた呉」ではなく「受け継がれた呉」の代表例。
  • 店主自身は子どもの頃、海軍墓地を「家への近道」として日常的に上り下りし、薄暮の坂道で「シルバーの檻」を見上げて肝試し気分を感じていた。古本屋として呉市立広図書館で『海ゆかば』に再会し、四十年越しに檻の中の「誰か」の名前と物語を知った。
  • 宮島・五日市・呉——広島県西部の三つの地名が、生きて呉に辿り着けなかった19歳の英国人を、一本の線で繋いでいる。海と陸が、百年前の一人の青年を、今もここに留め置いている。

呉海軍墓地・長迫公園は、いつでも静かに開かれています。本記事をお読みになって、TIBBINSの墓を訪ねてみたいと思われた方は、ぜひ一度、長迫公園の坂道を上ってみてください。下の入口から、緩やかな真ん中の坂道を上がっていけば、正面に階段、その上に塔のような上海満州事変戦没者之碑、そしてその手前・左側に、シルバーの鉄柵ドームに守られた小さな十字架がきっと見えるはずです。1907年から2026年まで、ずっとそこに立ち続けてきた、19歳の青年の墓です。

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