この記事について
2026年7月1日(水曜日)。朝から雨模様の呉で、店の奥にこもって買取品の整理をしておりました。正午、街にサイレンが響き渡ります。——ああ、今日は呉空襲の日だったか。
今日は買取のご報告ではありません。1945年(昭和20年)7月1日から2日未明にかけて、米軍B-29爆撃機約152機による焼夷弾攻撃で、呉市街地はほぼ焦土と化しました。死者約2,000人、罹災者約12万人——当時の呉市民のほぼ半数が家を失いました。呉で20年古本屋を続けてまいりましたが、この日だけは不思議と、郷土史の棚に三冊の証言集が並んでいるのです。今年もそうでした。この記事は、その三冊の紹介と、宮本澄枝さんの手記から、静かに書く追悼のコラムです。
こんにちは、呉市のアッシュ書店です。2026年7月1日、朝から呉は雨模様。出張買取の予定もない一日だったので、店の奥にこもって買取品の整理をしておりました。古本屋というのは、こういう日にこそ、普段は手が回らない棚の並び替えや、値札のつけ直しをするものです。
作業に没頭していた正午——ヴォーーーーッ、と、街にサイレンが響き渡りました。呉市が毎年鳴らしている、呉空襲の犠牲者を悼むサイレンです。手を止めて、そういえば今日は七月一日か、と思い出しました。1945年(昭和20年)7月1日の夜から2日未明にかけて、呉の市街地が焼夷弾で焼き尽くされた、あの夜からちょうど81年です。
今日は、いつもの買取レポートではなく、郷土史コラムとして書かせていただきます。呉で20年古本屋をやっておりますと、この街の記憶を刻んだ本と、何度も出会うことになります。特に「呉空襲」を記録した書籍——それは、当店の郷土史棚の、静かな主役たちです。
この記事でわかること
・1945年(昭和20年)7月1日〜2日未明の呉空襲——米軍B-29約152機による市街地への焼夷弾攻撃、死者約2,000人、罹災者約12万人
・呉の古本屋の棚に、なぜか毎年七月一日には並んでいる三冊の証言集——『改訂版 呉空襲記』『呉戦災 あれから60年』『呉を語る 体験手記集』
・宮本澄枝さんの手記(『呉を語る』所収)が伝える、あの夜の記憶
・20年古本屋を続けてきた店主が実感する、戦災関係書籍の入荷が「年に1冊程度」に減った現在
・アッシュ書店の呉空襲関連書籍・戦災体験記・戦友会誌の買取姿勢
第1章:雨の朝、正午のサイレン
2026年7月1日、水曜日。呉は朝からしとしとと雨が降っておりました。梅雨の後半、湿度は高いのに、少し肌寒い。出張買取の予定もなく、店頭営業も本日はお休み——古本屋というのは、毎日開けているようで、実は棚の整理や査定作業のために「店を閉じてこもる日」がどうしても必要になります。今日はそういう一日でした。
買取品の整理というのは、地味な作業です。段ボールから取り出す、埃を払う、状態を確認する、値付けを頭の中で組み立てる、ジャンル別に仮置きする——これを何時間もひたすら繰り返します。「よし、この山は郷土史、こっちは戦記もの、あれは文芸——」と、心の中で呟きながら手を動かしていると、時間があっという間に過ぎていきます。
そして、正午。
ヴォーーーーッ——と、街にサイレンが響き渡りました。呉市が毎年7月1日の正午に鳴らしている、呉空襲犠牲者を悼むサイレンです。呉に住んでいる方なら、このサイレンで「ああ、今日は七月一日か」と気づく方も多いのではないでしょうか。私も、作業の手を止めて、少しだけ頭を垂れました。
——今日は、呉が焼けた日だ。
第2章:昭和20年7月1日〜2日未明、呉が焦土になった夜
1945年(昭和20年)7月1日の深夜から翌2日の未明にかけて、呉市街地は米軍B-29爆撃機 約152機による焼夷弾攻撃を受けました。呉海軍工廠はすでに同年6月22日の空襲で壊滅的な打撃を受けており、この7月1日〜2日の攻撃は「市街地そのもの」を狙った無差別爆撃——住民の家々、商店街、学校、寺社を、片っ端から焼き払っていったのです。
公式資料(呉市戦災誌ほか)によれば、この一晩で——
- 死者:推計約 2,000人(諸説あり)
- 負傷者:数千人規模
- 罹災者:約 12万人(当時の呉市民のほぼ半数)
- 焼失家屋:市街地の大部分
和庄公園・横穴防空壕の一夜——550人が「墓標」となった場所
特に痛ましいのは、呉市和庄地区の横穴式防空壕で、およそ550人が一夜にして犠牲になったという記録です(戦災死者供養奉賛会・和庄公園犠牲者名簿ほか)。和庄公園は、現在の呉市和庄地区、呉駅から北へ徒歩10分ほどの小高い場所にある公園で、当時は山肌に横穴を掘って作られた大規模な防空壕が設けられていました。「山の斜面に穴を掘れば、爆撃から身を守れる」——これが当時の常識でした。
ところが、7月1日深夜に降り注いだのは、通常の爆弾ではなく大量の焼夷弾でした。市街地全体が炎に包まれ、防空壕の入口周辺も業火に囲まれ、酸素は炎に奪われ、内部は熱と煙で満たされていったのです。逃げ込んだはずの防空壕が、酸欠と熱で「一夜にして墓標」となってしまいました。老人、女性、子ども——市街地から逃げ延びてきた人々が、そこで折り重なるように命を落としたと伝えられています。
戦後、和庄公園には「戦災死没者慰霊碑」が建てられ、毎年7月1日には遺族と市民による慰霊祭が営まれてきました。呉市の平和資料館や郷土史誌にも、和庄公園の一夜は繰り返し記録されています。「一つの防空壕で550人」——この数字の重みが、7月1日〜2日の呉空襲の凄まじさを、何よりも雄弁に物語っています。
連続空襲のタイムライン——呉が受けた「五度の火」
呉の空襲は、7月1日〜2日だけではありません。昭和20年(1945年)春から夏にかけて、呉は都合五度にわたる大規模空襲を受けています。順を追って書き出してみます。
- 昭和20年3月19日:呉軍港空襲——米機動部隊の艦載機による攻撃。呉軍港に停泊していた艦艇群(戦艦大和、榛名、伊勢、日向、龍鳳ほか)が主な標的。海軍側に多数の死傷者。
- 昭和20年5月5日:広海軍工廠空襲——B-29延べ約130機による、呉市広地区の広(ひろ)海軍工廠への昼間精密爆撃。広工廠は航空機・魚雷・機銃などを製造していた海軍工廠で、呉本工廠とは別組織。この日、工廠は壊滅的な打撃を受け、多数の工員も犠牲になりました。
- 昭和20年6月22日:呉海軍工廠空襲——B-29大編隊による工廠壊滅を狙った爆撃。呉の軍需生産能力はここで実質的に潰えた、と言われます。
- 昭和20年7月1日〜2日未明:呉市街地空襲——B-29 約152機。この記事の中心となる空襲。工廠ではなく「市民の街」そのものへの焼夷弾攻撃。死者約2,000人、罹災者約12万人。
- 昭和20年7月24日・7月28日:呉軍港空襲——米機動部隊艦載機による、呉軍港残存艦艇への徹底的な攻撃。戦艦榛名、伊勢、日向、青葉、利根、大淀などがここで着底・大破。
——五度の空襲。しかし「市民の街」そのものが焼き尽くされたのは、7月1日〜2日です。工廠や軍港への攻撃は「軍事目標への攻撃」という建前が一応ありましたが、7月1日〜2日は市街地への無差別焼夷弾攻撃——だからこそ、この日が「呉空襲の日」として、毎年正午のサイレンで悼まれるようになりました。(連続空襲の詳細は、当店の呉・眼鏡橋編——海軍第一門・青山クラブと戦後の風景の第9章でも別角度から書いております。)
ある家の運命——上田繁『眼鏡橋往来』が伝える「清水通二丁目」の焼失
7月1日夜の空襲で、呉市街のどれだけの家が焼けたか。統計の数字だけでは伝わらないものが、個別の家の記録にはあります。
呉商工会議所理事から呉市理事・呉市議会議員を歴任し、昭和43年に呉史談会を設立して初代会長となった郷土史家、上田繁氏(1899-1973)の遺稿集『眼鏡橋往来』(1974年、ご子息の上田五球氏編)には、こんな一節が記されています。淡水学校第一回卒業生・東郷彪氏の家(清水通二丁目)が、「昭和二十年七月一日B29の空襲で焼失した」——と。
清水地区というのは、四ツ道路から東に坂を上って、亀山神社よりさらに山手側——休山(やすみやま)の麓に続く丘陵の入り口にあたるエリアです。和庄地区に隣接しており、平地の商店街ではなく、坂の途中の住宅地というべき場所です。上田繁『眼鏡橋往来』の記述に従えば、7月1日〜2日の焼夷弾は、平地の市街地を焼き尽くしたあと、亀山神社を越えて坂の上の住宅地まで、確実に達していたということになります。しかも、すぐ隣が、あの550人が犠牲になった和庄公園——地理的に、清水と和庄は、坂ひとつ隔てた隣人です。
一軒の家の焼失が、こうして半世紀後の郷土史書に一行として残されている——2,000人という死者数字の背後に、こういう「一軒、一軒、一家、一家」の記録があるのだ、ということを、私たちは忘れないでいたいのです。そして、坂の上まで焼けたということは、平地の被害はさらに凄まじかったということでもあります。(上田繁氏と『眼鏡橋往来』についてはこちらの記事で詳しく書いております。)
第3章:宮本澄枝さんが遺した、あの夜の記憶
三冊のうち、『呉を語る 体験手記集』は、呉市制100周年(平成14年/2002年)を記念して呉市が編纂した、市民が書いた体験手記の集大成です。戦後57年経ってなお、呉市が公式に「市民一人ひとりの記憶を残そう」として集めた一冊。その中に、宮本澄枝さん(大正15年生まれ、呉市在住)の「呉空襲記」という短い手記が収められています。
宮本さんは、あの夜、まさに19歳の若い女性でした。手記の冒頭は、こう始まります——
「昭和二〇(一九四五)年七月一日の夜のことでした。
古里の呉が空襲によって一夜のうちに焦土と化し、
軍都呉市は壊滅的な打撃をうけました。
あれから五〇有余年たった今日このごろ、
何もかも遠い昔になってしまいました。
あの夜のかなしくも苦しい思いではいつまでも忘れることはできません」
「一夜のうちに焦土と化し」——この一節に、あの夜の呉のすべてが凝縮されています。
「今夜は危ないよ」——前夜の予感
宮本さんの手記の途中には、こんな一節があります——「『今夜は危ないよ、昨夜山口がやられているからね』『皆で壕にはいろうよ』家族の誰もが緊張感をもって支度を始めました」。前日(6月30日夜〜7月1日未明)、山口県の宇部市・徳山市方面が空襲を受けており、呉にもその情報が伝わっていました。実際、7/1の夜の空襲は、島根県の浜田・呉市・高松市・徳山市を同日に狙った四都市同時空襲の一齣でした。「昨夜山口がやられている」という一行の背後には、こうした徒めない予感の雰囲気があったのです。
「もう焼けた」——足元に落ちた焼夷弾
そして、実際にB-29は来ました。宮本さんは書きます——「『もう焼けた——』と父の無念の声をかき消す様にシュルシュルと足元に落とされた焼夷弾の直撃を受け、『ドカン!』と壕を揺すらんばかりの大音響」。焼夷弾が防空壕のすぐそばに落ち、爆風で家族が防空壕ごと吹き飛ばされそうになる——それが「あの夜」でした。
ここで注目したいのは、「シュルシュルと足元に落とされた」という描写です。焼夷弾(M69ナパーム弾など)は、上空から束(クラスター)で投下され、地上付近で分裂して小さな子弾となり、雨のように落ちてきます。「シュルシュル」は、その子弾が空気を切って降ってくる音です。当時の呉の若い女性が、この音を「足元に落とされた」と表現している——この一行に、炎の雨の中で「自分の足の上から直接降ってきている」と体感した人間の現場感が封じ込められています。
「忘れることはできません」——五十年後の一節
手記の最後、宮本さんは、こう締めくくっています——「あれから五〇有余年たった今日このごろ、何もかも遠い昔になってしまいました。あの夜のかなしくも苦しい思いではいつまでも忘れることはできません」。
「五〇有余年」——つまり宮本さんがこの手記を書いたのは、平成12年(2000年)前後と見られます(平成14年刊行の本に収録されているため)。五十五年経ってなお、あの一夜の記憶は宮本さんの中で鮮やかに存在していました。そして「忘れることはできません」——この一文が、私は忘れられないのです。
呉の古本屋で仕事として蔵書を扱っていると、宮本さんと同世代の方々の蔵書に会うことがあります。大正末期から昭和初期に呉で生まれ、あの夜を青年・少年少女として体験した世代。蔵書に『呉空襲記』や『呉戦災 あれから60年』が含まれているとき、私は登録台帳に書名を記しながら、この方も万が一、宮本さんの手記に同じようなことを書いていらしたかもしれないと、少しだけ背筋が伸びる思いがします。
「忘れることはできません」——それは、宮本さん個人の記憶だけではなく、呉という街全体が抱えている記憶でもあります。そして古本屋の棚というのは、こうした記憶が、本という形でひっそりと伝えられていく場所でもあるのです。
第4章:三冊の証言集について——古本屋の目線から
先ほどの写真に写っていた三冊、少し詳しくご紹介しておきます。呉空襲を調べようとしたとき、まず手に取るべき基本文献と呼んでいい三冊です。
① 『改訂版 呉空襲記』
呉空襲研究の古典的名著と言っていい一冊。副題に「付・尾道、福山、岩国、徳山、光、宇部、下関の被爆」とあり、呉だけでなく広島県東部から山口県東部にかけての被害もまとめて記録しています。表紙の航空写真は、B-29の眼が捉えた爆撃予定図——同心円のマーキングが、「街を円で区切って焼き払う」という無差別爆撃の実態を、視覚的に伝えてしまう一枚です。
② 『呉戦災 あれから60年』(呉戦災を記録する会 編)
戦後60年、つまり平成17年頃の刊行と思われます。「そろそろ体験者が亡くなっていく」という危機感の中で、呉戦災を記録する会が体験手記を募集し、まとめあげた一冊。第一部・記念募集体験記、第二部・米軍による呉市民尋問録(神垣惟秀)、第三部・米軍パイロットの呉空襲体験記(吉田巍彦)という三部構成になっており、被害者側の証言だけでなく、加害者側であるアメリカ側の視点まで一冊に収録している、非常に立体的な記録です。この二部・三部の部分は、他の呉戦災関連書籍にはなかなか収録されておらず、この本の白眉と言っていいと思います。
第二部「米軍による呉市民尋問録」(神垣惟秀)——アメリカが呉市民に何を訊いたか
第二部は、呉戦災を記録する会の神垣惟秀氏が、戦後アメリカ側が実施した呉市民への戦略爆撃効果調査(USSBS / United States Strategic Bombing Survey)関連の資料を整理したものです。終戦直後、米軍は日本各地の主要都市で、爆撃を受けた住民に対して「どこに逃げたか」「防空壕は役立ったか」「食料事情は」「士気はどう変化したか」といった詳細な聞き取り調査を実施しました。呉もその対象都市の一つでした。
興味深いのは、この尋問録が、「被害者側の記憶」を「加害者側が公文書として記録した」ものだという二重構造にあります。呉市民が「あの夜、防空壕へ逃げた」「和庄公園でたくさん人が亡くなった」と語った言葉が、米軍の公式報告書という形で残された——そしてそれを、戦後60年経って、呉の郷土史家である神垣氏が日本語に整理し直した。記憶が国境を渡って往復したと言ってもいい記録です。
第三部「米軍パイロットの呉空襲体験記」(吉田巍彦)——B-29の中から見た呉
第三部は、呉戦災を記録する会の吉田巍彦氏が、B-29の乗員側の証言・回想録を集めて訳出・整理した労作です。マリアナ諸島の基地から夜間に飛び立ち、深夜の呉上空で焼夷弾を投下したパイロット、爆撃手、機関士——彼らが戦後、自分の体験を語った本や回想録の中から、呉空襲に関する記述を抽出したもの。
米軍パイロットの証言の中には、「呉上空に到達したとき、街はすでに一面の炎の海だった」「照明弾なしでも、街の火明かりで爆撃コースを確認できた」といった記述が出てきます。地上で焼かれていた呉市民が「空を仰いで見た炎の色」と、B-29の窓から見下ろした「炎の海」——同じ夜の同じ炎を、地上と上空、被害者と加害者の両側から見た記録が、この一冊の中で対面しているのです。
吉田氏は米軍パイロットの手記の中に、こんな一節も紹介しています——「あの夜、我々は任務を遂行した。しかしその下に、どれだけの家族が居たのかは、後になって初めて知った」。加害者側にも、戦後、こういう言葉を残した個人がいたということ。呉戦災を記録する会が、この視点まで日本語で収録してくれたことの重みは、「呉空襲を、呉だけの記憶で終わらせない」という、深い覚悟の表れだと思います。
③ 『呉を語る 体験手記集』(呉市制100周年記念)
平成14年(2002年)、呉市制100周年を記念して呉市が公式に編纂した体験手記集。宮本澄枝さんの「呉空襲記」もこちらに収録されています。呉市が公式に、市民一人ひとりの体験を「街の歴史」として位置づけた一冊——という意味で、呉の郷土史文献の中でも特別な位置を占めています。
第5章:戦災関係書籍の入荷が「年に1冊程度」になった現在
ここからは、20年古本屋を続けてきた店主の、正直な実感を書かせていただきます。
私がこの店を始めた頃——2006年(平成18年)ですから、ちょうど今から20年前です。あの頃は、まだ『呉空襲記』『呉戦災あれから60年』『呉を語る』などの戦災関連書籍が、けっこう頻繁に買取で入ってきていました。1年に何冊も、時にはご遺族から一括で複数冊いただくこともありました。
それが、この2〜3年、年に1冊入荷があるかないか、というくらいまで減ってしまいました。
これは、少し考えれば理由の見当がつきます。あの夜を実際に体験した世代——宮本澄枝さんのように大正15年生まれ、あるいは信太サカヱさんのように当時小学5年生だった方々——は、すでに90代後半から100歳以上になっておられます。ご存命の方は、いよいよ限られてきました。
そしてご遺族が、故人の蔵書を整理される。その中に、こうした戦災関連書籍が含まれている。しかし——その「蔵書処分の波」自体が、そろそろ終わりに近づいているのです。証言者ご本人の遺品整理を経て、そのご子息・ご息女世代の遺品整理へと、時代が一つ進んでいる。
だから、今、うちに『呉空襲記』や『呉戦災 あれから60年』が1冊入荷すると、私は「これは残しておかなければ」と思います。すぐには売れないかもしれない。しかし、これは呉という街の記憶そのものであって、次に必要とする誰か——郷土史家、研究者、平和学習の教材を探している教員、あるいは「祖父母の故郷を知りたい」という若い方——に手渡すまで、うちの棚で待っていてもらえばいい。それが古本屋の役目です。
実は、つい先月(2026年5月)、呉市内のあるお宅で、お父様の蔵書を本引き取りさせていただいた際にも、『呉戦災 あれから60年』『呉空襲記』が並んで入っていらっしゃいました。艦艇写真集、鉄道書、戦記もの——そして呉の郷土史書。「呉の男のロマン」とでも呼ぶべき蔵書構成の中に、この二冊がしっかり収まっていたのを見て、「ああ、この方は、呉という街の全部を、本という形で縦に集めていらしたのだな」と、しみじみ感じたのを覚えています。(この日の様子はこちらの本引き取り記事に書きました。今日の三冊は、あの日の蔵書の記憶と、地続きにつながっています。)
コラムとして書く三冊と、実際に買取現場で手に取る三冊は、私の中で完全に地続きです。棚に並んでいる本は、必ず、以前どこかのご家庭で誰かに読まれていた本——その事実の重みを、20年古本屋を続けて、ようやく少しずつ実感してきたところです。
第6章:郷土史の棚の前で
——冒頭に戻ります。
今日、2026年7月1日。当店は店頭販売をしておりません。買取品の整理をしていた一日でした。しかし、不思議なもので、毎年七月一日には、なぜか郷土史の棚に、この三冊が並んでいるのです。今年もそうでした。
意識的に「七月一日だから並べておこう」と、朝から用意したわけではないのです。棚を整理していて、たまたま今日、この三冊が目に入る場所に置かれていた。正午のサイレンが鳴った後、ふと棚に目をやると、そこに三冊が並んでいた——それだけです。
これは偶然でしょうか。それとも、20年古本屋をやっていると、体のどこかが七月一日を覚えていて、無意識にこの三冊を近くに置いてしまうのでしょうか。私にはわかりません。ただ、今年もそうだった、というだけです。
正午のサイレンが鳴り止んだ後、私は棚の前で、少しだけ手を合わせました。宮本澄枝さんが「忘れることはできません」と書いた、あの夜のために。
買取について——呉戦災・空襲体験記・戦友会誌などの郷土史書籍
アッシュ書店では、呉戦災・原爆・戦災関係の書籍、空襲体験記、戦友会誌、出征軍人の回想録、引揚体験記などの郷土史・戦記関係書籍を積極的に買取しております。以下のような書籍は、ぜひご相談ください。
- 『呉空襲記』『呉戦災 あれから60年』『呉を語る 体験手記集』などの呉戦災関連書籍
- 各地の戦災誌、空襲体験記、被爆体験記
- 連隊史、戦友会誌、部隊史
- 出征軍人の日記・回想録・私家版手記
- 引揚体験記、シベリア抑留記録
- 原爆関係、平和教育資料
- 呉海軍工廠関係資料、艦艇史
- 郷土史書、市町村史、記念誌、社史
ご遺族の方の蔵書整理、書庫の片付け、どうぞお気軽にご相談ください。遺品整理としての本の引き取りにも対応しております。「これは価値があるのか?」「捨てるのは忍びない」というお気持ちを、20年古本屋を続けてきた店主が、丁寧にお伺いさせていただきます。
関連ページ
- 呉市の古本買取
- 郷土史・地方史の買取(戦争体験記、戦友会の記念誌、出征軍人の回想録、引揚体験記、空襲体験記)
- 全集・叢書の買取(原爆・戦災関係叢書ほか)
- 本専門の遺品整理(引取料0円)
- 出張買取について
関連記事もぜひご覧ください
- 呉市内本引き取り——艦艇写真集6巻揃・RM LIBRARY 30冊・お父様の蔵書を譲り受けて ← 呉海軍関連書籍の実際の買取事例(『呉戦災 あれから60年』『呉空襲記』についても言及)
- 呉・眼鏡橋編——海軍第一門・青山クラブと戦後の風景 ← 呉空襲の連続空襲(3/19、6/22、7/1〜2、7/24、7/28)の詳細な郷土史記述を含む
- 標高737は呉の旧郵便番号と同じ——灰ヶ峰、自然夜景遺産・「くれ」文字カップル伝説・旧海軍高角砲台跡 ← 呉を空襲から守ろうとした灰ヶ峰の高角砲台
- 呉海軍墓地番外編——英国水兵ティビンズの墓と、失われた呉の風景 ← 呉空襲で失われた景色をたどる郷土コラム
- 戦前の呉「四ツ道路」絵はがきと、消えた時計屋洋館——渋沢栄一が呉に遺した二本の糸【失われた呉を辿る①】 ← 呉空襲で失われた戦前の呉の街並みを辿るシリーズ